安曇野むかしばなし

庵主さまとムジナ~明科・下押野

むかし、雲龍寺の隠居寺として建てられた青柳庵に、庵主(あんじゅ)さまという尼さんが一人で住んでいました。庵主さまは、村を托鉢(たくはつ)して、ひっそりと暮らしていました。

托鉢してまわる庵主さまの後ろ姿を見て、村の女衆のうわさ話に花が咲いていました。「なんか、わけありなお人みてえだいねえ」「あんねに色白で、むかしはきつとえらく美人だったにちげえねえに、今じゃ、頭丸めてお衣姿だでなあ」「そういやあ、庵主さまの笑い声ってのは、聞いたことねえわなあ」

          104_2(大正期に焼失した後に再建された青柳庵。元の建物では、江戸末期から明治期にかけて寺小屋など村の子どもの勉学の場として利用されていたといいます)

秋が近くなり、ブナ林がわずかに色づきはじめた、ある日の夕方のことでした。托鉢から戻った庵主さまが、外で足を洗っていると「ザックザック、シャキシャキ」と勝手の方で、小豆をとぐような音がしました。「はて、だれぞ見えているのかな」と家の中をのぞくと音はピタリと止みました。

しかし、しばらくすると「ザックザックザック、シャキシャキシャキ」と聞こえてきます。「はて、不思議なことじゃが、今夜は久しぶりに小豆粥(あずきがゆ)でも炊いて、いただきましょうかな」と、音に誘われたように、庵主さまのその日の夕餉は小豆粥のごちそうでした。

それからしばらくしたある日、今度は「ゴリゴリ、ゴリゴリゴリ」と、しきりに味噌をするような音が聞こえてきました。「おやまあ、今度は温かな大根の味噌汁がいただきたくなりましたよ」。

庵主さまは楽しげに独り言をいいながら、托鉢でもらった大根を刻んで、あつあつの味噌汁をいただきました。

     110_2    (庵主さまは、このようなやさしい顔立ちで、ムジナと接していたのでしょうか)

それから、またしばらくした夕暮れ時のことでした。「ズイコン、ズイコン、ズイズイズイ」と、外でノコギリで木を切る音がしてきました。そのうちに「ズイコン、ズイコン、ハッハッハー」と、ノコギリを引く人の息づかいまで聞こえてきました。「こんなに日が暮れてから、気を切る人もいないはずじゃが…」。

そっと外をのぞくと、大きなムジナが一匹、しっぽをぴんと立てて、何かしています。ぴんと立ったしつぽを後ろに倒して、右に左にと揺らしました。すると、しっぽの毛が揺れて「ズイコン、ズイコン」と、ノコギリで木を切る音がしました。

次にしっぽを上下に振ると、「ハツハッハッ」と息づかいの音になりました。ムジナの一生懸命な様子に、庵主さまは「オホ」と小さな笑い声を出してしまいました。すると、ムジナはパッと消えてしまいました。

     Photo                (ムジナの剥製=豊科郷土博物館蔵)

やがて、ブナ林の葉が黄金色に染まり、冷たい風が舞い散るようになったころ、「おー、さむ」  托鉢から帰ってきた庵主さまは、戸口を開けて中に入ってまもなく「トン、トン、、トントントン」   と、戸がたたかれました。

庵主さまは、あのときのムジナだなと、とっさに思いました。「はい、 はい。お入りなさいな」。そういっても「トン、トン」と、戸をたたく音がします。なかなか入ってこ  られないムジナの様子に、庵主さまは、とうとう声を上げて笑い出しました。

     109(青柳庵の前に多数の石仏が安置されていて、市有形民俗文化財に指定されています)

「まあまあ、大きな体をして、ずいぶん気の弱いムジナだこと。オホ、オホ、オホホホホ。はい  はい、それでは今夜は久しぶりに小豆粥を炊くことにいたしましょう。わたし一人ではさびしい  ので一緒にごちそうになりましょうぞ」。

かゆが煮えるいい匂いに誘われて、のそのそとムジナ が入ってきて、やがて庵主さまと小豆粥を食べました。   

しばらくして、村の人たちの間に妙な話がささやかれだしました。「変なことだいね。庵主さまはひとり住まいのはずが、夜な夜な庵から話し声がするってぞ」「あの物静かな庵主さまが、オホホ、オホホと笑い声立ててるのを、聞いたもんがいるっていうしな」。   

時が経つにつれて、噂は大きくなりました。「でっけえムジナが出入りしてるのを見たって話だ  ぞ。庵主さまは、ムジナにたぶらかされてるじゃねえだかい」「おらとこの大根抜いてったのは、そのムジナにちげえねえ。もしかしたら庵主さまがムジナ使ってやってるこんかもしんねえぞ」「なんにしても、気味悪いこんだわ」

             103(青柳庵の境内には、西国や秩父の観音霊場に行けなかった人たちのために念仏塔などを建て、それをお参りすることにより巡礼の代わりにした石塔も残っています)

村の人たちは、だんだん庵主さまを避けるようになり、托鉢で分けてもらう食べ物も少なくなっ ていきました。いよいよその日の暮らしにも困るようになったある日、村の人たちの噂話を耳  にした庵主さまは、ムジナにいいました。

「おまえが来てくれて、本当に楽しく過ごせました。で も、わたしを助けようと大根を抜いてきたりしては、村の人に申し訳がたちません。わたしも年 老いて、目も悪くなってしまいました。わたしの家は越後(=新潟県)にあります。わけあって、長い間帰ることができずにいたけれど、他に頼るところもないのでわたしを越後までつれて行 っておくれ」。   

ムジナは、旅人の姿に化けると、庵主さまの手を引いて越後に向かいました。その後、ムジナが再び戻ってきたかどうかは、誰も見たことがないので分かりません。そして住む人のいなくなった青柳庵は、火事で焼けてしまいました。 

 

       * 「あづみ野 明科の民話」(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。       

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お玉柳~豊科・重柳

むかし、重柳(しげやなぎ)に百姓の万蔵ときよの夫婦が住んでいました。この夫婦には、お米、お玉という仲の良い姉妹がいました。

姉のお米は、家の中にいて食事を作ったり、針仕事をするのが好きで、おとなしい娘でした。妹のお玉は元気がよく、田畑の仕事が好きで、父や母を助けてせっせと働いていました。

ある年の春のことです。田んぼの仕事が始まって忙しくなってきました。朝は日の出る前から、夜は暗くなるまで、田起こし、苗代作り、種蒔きと、猫の手を借りたくなるほどの忙しさでした。そんなある日、万蔵が馬に鋤(すき)をつけ、田起こしをしていると、まだ生まれたばかりの小さな黒いヘビが、にょろにょろと馬の下を横切ろうとしました。

     123   (むかしは、このように馬に鋤をつけ、田起こしをしました=豊科郷土博物館蔵)

万蔵は、はっとして「どうよ、どう」と、馬を止めましたが、間に合わず、鋤でヘビを二つに切ってしまいました。「いけねえことをしちまったいなあ」とヘビを見ると、しばらく苦しがっていましたが、そのうち動かなくなってしまいました。

「かわいそうなことをしちまった。ここのままじゃ、いけねえで、埋めてやらずよ。どうか成仏(じょうぶつ)しておくれよ」と言って畔(あぜ)の横の柳の木の下に穴を掘って埋めました。手を合わせ拝んで、ふと下を見ると、いつの間に来たのか、大きな黒いヘビがとぐろを巻いて、じっと万蔵を見ていました。

     083    (黒い色をしたヘビというのは、ヤマカガシのことでしょうか=大町山岳博物館蔵)

万蔵はなんだか怖くなり、真っ青になって家へとび帰りました。それから三日ほどして、苗代の種蒔きを終えました。「今年もやっと種まきが終わったで、今夜は風呂沸かし米の飯をたいて祝いをしねえか」と万蔵が言うと、きよも「そうだいね。さっそく家へ帰って用意するわい。お玉や、さあ帰らねえか」とお玉に声をかけました。

「まだ日が高いで、おらセリでも採っていくで、先に帰っておくれや」というので、万蔵ときよは、鍬(くわ)やモミ袋をかついで先に家に帰りました。お玉は、田の畔に長く伸びたセリを引き抜き、両手に持ち切れないほど採ったので、藁(わら)でクルクルと束ねました。

「あーあ、疲れた。一休みしていくか」と、腰のあたりをトントンとたたいて、柳の木の下へ行って腰を下ろしました。背中を幹にもたせていると、仕事の疲れがでたのか、うとうと眠ってしまいました。

そこへ、どこから現れたのか、大きな黒いヘビがスーと近づいてきて、お玉の体にぐるぐると巻きつきました。「ひぇー、だれか助けてーえ」と目を覚ましたお玉は叫びましたが、だんだん苦しくなってきました。

      111(重柳住民の氏神さま・重柳八幡神社。万蔵も何かにつけ、お参りしていたのではないでしょうか)

すっかり暗くなってもお玉が戻らないので、心配になった万蔵はあちこちと探しにでかけました。そして、田の畔の黒い影を作っている柳の木の下までやって来ました。提灯(ちょうちん)の明かりを黒い影に近づけてみると、お玉でした。「おい、お玉、お玉。どうしたんだ」と叫びましたが、お玉は息絶えていました。

万蔵は、ふと三日前の小さなヘビのことを思い出しました。
「ああ、なんてこっつら。おらがヘビの子を殺しちまったばっかりに、お玉が……。おら、へぇだめだ。どうしたらいいずら」と、お玉を抱いたまま、その場にへたりこむと、さめざめと泣きました。

そんなことがあってから、村の人たちは気味悪がって、この柳の木へは誰も近づかなくなりました。それから後、このあたりは柳がたくさん生い茂り、林のようになりました。なかでもひときわ大きい柳の木を、村の人たちは「お玉やなぎ」と呼んだそうです。

 

       * 『 あづみ野 豊科の民話 』(安曇野児童文学会編)を参考にしました。

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十一観音さまと彦太郎じい~三郷・住吉

住吉に住んでいた彦太郎は、若いころ、女房と子どもをはやり病で亡くしてしまいました。葬儀を終えてしばらくしてから、近くの人たちに「わしは二人の供養とこれからの幸せのために、暇を見て巡礼の旅にでたいと思う。わしのわがままを許しておくれや」と、頼みました。

「むりもねえことだ。気のすむように信心してみるさ」といって周りが同意してくれたので、巡礼の旅に出ることになりました。

           256(むかし、ほうそうなどの感染症が流行した時、道祖神や村の十字路などに「ほうそう流し」を置いて悪病退散を祈りました=堀金民俗歴史資料館蔵)

次の日、白装束に身をかため、わずかの物を風呂敷に包みたすき掛けにし、雨具のゴザと檜笠(ひのきがさ)をかぶり鈴を手にして家を発ちました。自分の力で歩き続け、日が暮れれば札所(ふだしょ)のお寺さんに泊めてもらったり、時には野宿して一夜を過ごすこともありました。

春の田植えや、秋の穫り入れには巡礼先から家に戻り、手伝いをしました。その間に信仰する心を失ってはと思い、石工に頼んで十一観音を刻んでもらい、朝夕拝んでいました。

そして、また暇ができると巡礼にでました。あちこちを巡り歩くので、彦太郎が戻ると近所の人たちは珍しい話を聞きに彦太郎のところへ集まりました。

                              255(巡礼の旅に出る人の無事を祈って、藁人形を作って飾った「身代り人形」=堀金民俗歴史資料館蔵)

「秩父へいくとねえ、銘仙の着物の柄がとてもきれいで、秩父縞(ちちぶじま)という織物があるんね。それから、秩父青石といって庭石にするといいね。だが、持ってくるに大変だでね」

「坂東三十三ヶ所はいいところだが、話が分からねえところがあってせ、なんしろ坂東なまりといつて、ここらとは違う言葉を使っていてね」と、彦太郎の話はおもしろおかしく、時の経つのも忘れるほどでした。あちこちの観音霊場からもらってきたお札で、彦太郎の家もいっぱいになりました。

                   033(四国や秩父の霊場へ巡礼に行かれなかった人たちのために建てられた霊塔)

やがて彦太郎も年を取り、八十歳を越えました。でも足腰はしっかりしていて若く見えました。ある日のこと、隣の若い衆が山へ薪(たきぎ)を採りに行くことになり、家の前で支度をしていました。そこへ彦太郎じいさまが来たので「おはようござんす。じじは、あちこち出かけていたで元気だね」と、声をかけました。
すると彦じいは「そうさ、若えころからよく歩いたでなあ。だがへえ年だわや。おらなあ今日死ぬでな」といいます。

「じじ、縁起の悪いこというない。そんねに元気だに、なんで死ぬだい」というと、彦じいは「おら自分の寿命を知っているでな。ハッハッハッ」と笑いながら遠ざかりました。

若い衆が、あんなに元気だった彦じいが亡くなったと聞いたのは、山仕事から戻ったその日でした。
そんなことがあってから村人たちは、「信心深い人は自分の寿命も悟るものなのだ」と噂し、彦じいの遺した十一観音を大事に祀ったということです。

 

              * 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参照しました。

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しゃごじさま~豊科・本村

むかし、村はずれに長七と娘のさよが、仲よく暮らしていました。その年は、水不足で米ができず、わずかな畑の作物に頼りながらの生活でした。

そんなある日、さよが熱を出して寝込んでしまいました。長七は、なんとかしてやりたいと思いながら、一生懸命、看病していました。心配した村の人たちは、「お祓いでもしてもらった方がええんじゃねえかや?」と言い、長七は神主にお願いすることにしました。

神主は「西村にある社(やしろ)の薬草を煎じて飲ませれば、病は治る」と、言います。ただ、その社には「しゃごじさま」という、とても怖い神さまがいて、境内にある草や木の枝一本なりとも持ち去ると、祟りが現れて、誰も近づかないとも言うのです。

     2_5(現在の西村周辺の風景。村の人の話では、しゃごじさまの祠も土地改良事業で今は見ることができません)

長七は悩んだ末に、次の日の夜中、西村の社のある森へと向かいました。境内に入り込んだ長七は、辺りを見回して誰もいないのを確かめて、こっそりと薬草を採りました。

そして、一目散に家に駆け戻ると、さっそく、薬草を煎じてさよに飲ませました。すると、さよの顔色がだんだん良くなってきて、熱も下がり始めました。

ところが、次の晩から、空が割れるような雷と、地が川のようになるくらいの大雨が、村を襲い始めました。そんな日が、何日も続きました。寄り合いのあった日、「このままじゃ、おらとこの田畑は、みーんな流されちまうだや」。「村が、なんかに祟られちまったような荒れ方じゃねえかい」。

すると、佐平が「そういゃあ、西村の社に棲む金のヘビが、怒って暴れてるちゅう噂だが」と、低い声でつぶやきました。「おお、おらも聞いたわ。なんでも、一軒ずつ家捜ししてるらしいわな」と与助もいいました。

それを聞いた長七は、「きっと、おらのことを探しているに違えねえ」と思い、身の凍るような寒気がしてきました。

     124                  (西村を南へ2キロほど行くと、拾ヵ堰が流れ、遠くに常念岳が望めます)

その晩も、雨はいっこうに止まず、長七は、震えながら布団にくるまっていました。しばらくして、スーッと足元が冷たくなったかと思うと、長七の体は固まって動けなくなってしまいました。

次の瞬間、薬草の匂いをかぎつけた金のヘビが、長七の顔の上に姿を現し、「おまえが、わたしの大事な薬草を盗んだね」と言うなり、見る見る長七の首に巻きつきました。

長七は、苦しくもがきながら「うっ、申し訳…ねえだ。盗むつもりはなかったん…だが、娘の熱が…フー、下がらねえもんで…」と、やっとの思いで声をだしました。「他人のものを盗むとどうなるか、思い知るがよいわ」と、ヘビはますますきつく長七の首を絞めました。

「まっ…てくれねえかい、おらが、おらんくなったら、む…すめは…一人になっちまうずら。せめて、今夜…だけでも…」と、長七は、必死にお願いしました。

ヘビは巻きついていた首から力を抜き、スルスルと下り「今夜だけだよ。朝、娘が目を覚ます前に、おまえ一人で森に来るのだ、いいな」。そう言い残して、姿を消しました。長七は、すっかり元気になったさよの寝顔を見ると、涙がでてきました。

そして、「元気でな」と、そうっと言いながら、まだ薄暗いうちに家を出て、ヘビのいる森へと向かいました。

     066          (しゃごじさまのご加護でしょうか。米は、今年も豊作でした)

その日の朝は、何日かぶりに青空がのぞき、村の人たちは、やっと田や畑にでて仕事することができました。しかし、それきり長七の姿を見たものはいませんでした。

西村の社の森には、いつの間にか、大きな松の木が一本立っていました。木の枝が、さよの住んでいる家の方を向いて張っていました。そして、夜になると金のヘビがからまっている姿を、何人もの村の人たちが見たといいます。

それ以来、不作だった村は作物がよく穫れるようになりました。村の人たちの間に「しゃごじさま」にお願いすると豊作になるという話が伝わり、社を大切に祀るようになったということです。

    * 『 あづみ野 豊科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。

 

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目薬師さま~堀金・田尻

むかし、田尻の薬師堂には、薬師如来さまが祀られていて、願を掛けると目の病が治るということで遠くからも大勢の人がやってきたということです。                                    

ある年、村にただれ目が流行りました。薬師堂の近くに住む伝三もこのただれ目にかかり、薬をつけても少しもよくなりませんでした。女房のおとくが、「おまえさん、こんなに手を尽くしても治らねえで、どうだね、お薬師さまに頼んでみちゃ」といいました。 

     089                       (田尻にある薬師堂)

しかし、伝三は不信心で「おら、お参りすりゃ治るということは、嘘っことに思えてしょうがねえだよ」と、気が乗りません。「おまえさん、これほど困っても、まだお薬師さまを信じねえだかい。信じなんでもいいが、このままだと目が見えなくなるんね。それでもいいだね」。おとくが心配のあまりきつく言うので、伝三は仕方なしにお参りすることに承知しました。

おとくは、伝三の手を引いて薬師堂へ行き、和尚さんに願掛けを頼みました。和尚さんは、じいっと伝三の目を見て「これはひどいことになっておるのう。治るかどうかは、伝三さんの心がけしだいですぞ」といいました。

伝三は須弥壇(しゅみだん)に近づき、床に顔をつけるように座り、和尚さんのお経をきいていました。

     092 (無人で施錠されている薬師堂の中をのぞくと、 須弥壇に厨子があります。この中に薬師さまが安置されているのでしょう)                                    

「三日三晩の願掛けじゃ。薬師さまに朝晩お参りして、しっかり頼みなされよ」と和尚さんにいわれ、「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ……」と念仏を三日三晩続けました。しかし、四日経っても五日経っても目はいっこうによくなりません。

「みろ、あんねに願掛けたって、ちっとも治らねえじゃねえか」と伝三は怒って、おとくに言いました。伝三にそう言われて、おとくも困ってしまいました。                                    

しばらく考えていたおとくは「そうさね、これしかねえわね」とひざをポンと叩き、ひき臼を取り出してきて、米の粉を挽き始めました。その粉をグツグツと煮て、だんごを作りました。

「さあ、おまえさん、おまえさんの目の形のだんごを作ったで、これを目に押し当てておくれ」と真顔でいうので、伝三はおとくの言う通り、だんごをいくつも目に押しつけました。

     067    (おとくが目だんごを作ったひき臼、こね鉢は、こんな道具だったのでしょうか)

おとくは、そのだんごを持って、伝三と一緒に薬師堂へ行きました。「和尚さま、伝三の目をたんと持ってきたで、これをお薬師さまに上げてお願いしりゃ、きっと目の患いは治るんね」

「おお、そうじゃのう。おとくさんは、いいことに気がつかれた。いつも心がけがよいから、如来さまのご加護がいただけるのう。伝三さん、しっかり薬師さまにお願いしなされや」と、二人に答えました。

     095                     (薬師堂の近くに庚申塔が置かれています)                                    

おとくと伝三は、それから三日三晩、薬師堂と家を行き来して、真剣にお願いしました。その甲斐あってか、四日目から目ヤニも取れ、涙もなくなりました。

「おまえさん、よかったいねえ。やっぱりお薬師さまのおかげだんね」「そうだいなあ。おら、こんなに一生懸命になったことはなかったぞ。おとく、おまえのお陰だ」                                    

それから後、この話が伝わり、目の患いには「お目だんご」を供えて、願かけするようになったということです。

 

       * 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。                                     

                                    

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赤ん坊を抱いたキツネ~明科・白牧

白牧の山奥から大口沢へ出る峠道は、木々がたいそう茂っていてうす暗く、夜通ると真っ暗なので、キツネに化かされるといわれていました。

むかし、この山里に平助が器量のいい女房と赤ん坊といっしょに住んでいました。平助は、ろくに働きもせず毎日酒ばかり飲んでいたので、暮らしは貧しいものでした。

女房が赤ん坊を寝かしつけてから、夜なべ仕事でわら草履(ぞうり)を作り、それを平助が売りに出かけ、売り上げて得たわずかな金も、酒に換えてしまうのでした。

     128(むかしは夜なべ仕事で、こうしてわら草履を作ったといいます=豊科郷土博物館蔵)

ある秋晴れの日、平助はいつものように昼間から酒を飲んでいましたが、腹を空かした赤ん坊が泣き止みません。

「やかましいぞ!これじゃ飲んだ気がしねえ。しとっきら(ちょっと)酒買いに行ってくるで、帰ってくるまでに乳くれて寝かせておけ」と言い残し、平助は女房の作った草履を手にして出て行きました。   

平助は、山を越えて隣村に着くと、わら草履を売って、さっそく酒を買いました。家に戻る途中、我慢ができず歩きながら酒を少しずつ飲み、足元をふらつかせながら、山道を帰っていきました。

「すっかり暗くなっちまったな。それにしても今夜は、いい月だで、明るいずら。これならキツネなんか出っこねえ。まっ、帰ったら月見酒とするか」と、ご機嫌で峠道の曲がり角に差し掛かりました。

          078(白牧の山道は、今でも木が茂っていて昼なお暗いところがあります)

カサカサッと音がしたので振り向くと、木々の間から差し込む月の光に照らされて、寝ている赤ん坊を抱いて立っている若い女の姿が見えました。

「おい、こんなとこにおなごが一人で物騒じゃねえか。いってえ、どうしただい?」「この子とふたり、隣村へ行く途中、草履の鼻緒が切れてしまい足が痛くて…。すげ替えたいと思っても、この子を降ろすと泣き出してしまうので、困っています」と、女は抱いている赤ん坊を揺すりながらいいました。

     140           (藁で編んだ草履=豊科郷土博物館蔵)

「にかっこ(赤ん坊)が一緒じゃ、えらかったずら(大変だったろう)。どう、おらが抱っこしてやるで、その間に鼻緒を直せや」と平助は、手に持っていた徳利を足元に置いて、女から赤ん坊を受け取りました。

「おらとこにも、にかっこがおるで、抱っこするのは慣れてるで。……だで、こんな夜道をおなごだけじゃ危ねえし、にかっこがキツネにさらわれてもいけねえで、草履が直ったらおらが送って…」。

そこまで言いかけるや否や、急に風がヒューと吹き抜けました。背中のあたりが冷たく感じたので、平助は鼻緒を直している女のほうへ振り向くと、女の姿がどこにもありません。

          051(キツネが獲物に襲いかかるとき、このようなポーズをとります=大町山岳博物館蔵)

「おぉーい、どこにいるだ」といいながら、あちこち探しましたが見当たりません。「にかっこ置いていなくなるわけねえだが……、なあ」と抱いていた赤ん坊を見ると、手の中にあるのは木の切り株ではありませんか。

「ええーっ、なんだこりゃ?なんで、とっこ(木の切り株)になっているだあ?」。何が起こったのかわけが分からず、平助はボオーッとしていました。酔いもすっかり覚めてしまい「おら、酔っていたせいで夢でも見ていただかや…。早く帰って飲み直しだ」と、切り株を力いっぱい投げ捨てました。   

そして、足元の徳利を持とうとすると、徳利がありません。「ない。おらの酒がない!」。木の陰に転がってしまったのかと、暗がりの中、草をよけて探しましたが、やはりありません。

平助はようやく気がつきました。「もしかして、ありやキツネか?おら、化かされただか?ちきしょう、あの女ギツネめ!」

     118(むかしは、こうした徳利に量り売りで酒を買いました。平助もこんな徳利に入れて山道を家路に向かっていたのでしょうか=豊科郷土博物館蔵)

次の日、村の人たちに昨夜起こったことを話すと「おお、この時分は、山に赤ん坊を連れたキツネが出るって聞くぞ」「おめえが、のうなし(怠け者)で、べっぴんな女房とめんこいにかっこを、でえじ(大事)にしねえで、子連れギツネに化かされるだじ」「女房の稼ぎで酒なんか飲むせいずら」と平助は、みんなに責められました。   

平助は、このことがあってから酒を止めて、まじめに働くようになり、女房を大事にするようになりました。赤ん坊の面倒もよく見るようになりましたが、泣いている赤ん坊をあやすたびに、あの夜、キツネに抱かされた赤ん坊のことを思い出したといいます。

 

       * 『 あづみ野 明科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。      

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庄野薬師~三郷・七日市場

七日市場の東を流れている庄野堰(しょうのせぎ)は、昔から大雨が降るときまって水量が増えました。堰を超えた水が田畑に流れ、激しいときは田畑の土を流してしまうこともありました。                           

ある年の梅雨のころでした。灰色の空から糸のように細かい雨が降るかと思えば、雷が鳴って夕立のように地面をたたきつけるような雨の降る日が、何日も何日も続きました。

心配して駆け付けた村人たちは、堰の土手に集まっていました。川はにごった水でいっぱいになり、ご うごうと音をたてて流れていました。積み上げた土嚢(どのう)を超えるような勢いになっていま した。

            096 (水を満々と張って流れる堰。今は護岸工事も施され、決壊するようなことはなくなりました)

「おい、この土手が切れたら大変だ。定七さや、おめえさんは幸三さと吉十さを連れて、上手の分かれ口に行ってもっと土嚢を積んでこいや。残りのものは土手の土を、あの曲がりっとへ積んでくれ」と、庄右衛門がみんなに指図しました。                           

「よおし、堰を止めてくるで。土手を切らさねえように頼むんね」と、定七はそういって出かけま した。激しい雨を突いて目指す場所まで来てみると、泥水が上流から大きな波となってたたき つけるように、分かれ口にぶつかっていました。

水門は壊れ、堰が大きくえぐられ、そこに水が流れています。「おい、こりゃ手がつかねえ。少しばかりの土じゃどうしようもねえわ」と、定七は流れのすごさにあきらめ顔でいいました。

              080    (当時の村人たちは、蓑(みの)と笠で雨をしのぎました=明科歴史資料館蔵)

すると幸三がいいました。「あきらめるのは早いぞ。おら、家さ行ってノコギリ持ってくるで、牛  わくを作っていれろや」。「ん、そうだな、そうしてみるか。それにゃもっと人出がいるな。いった ん戻って頼んでみよう」と答えました。

三人が庄右衛門たちのいるところへ戻る途中、川が曲 がっているところへ来ると、来た時と様子がすっかり変り、泥水が一面に広がって田んぼに流れ込んでいました。

「やあっ、えれえことになっちまった。またやられたわ」と、定七はその様子を見て、へなへなと 座り込んでしまいました。

そのとき、「おい、定七さ、あれを見ろよ」と幸三がいいました。指さす方を見ると、泥水のなかに降りしきる雨を浴びて、石の薬師さまが座っています。何か、にこにこ笑っているような表情にもみえます。膝の上に手を組み、赤い衣と胸の真っ白い線が浮かび上がり、周りに光を放っています。

     Photo_5         (堰の氾濫もなくなり、稲穂が順調に育つ環境となりました)

定七、幸三、吉十も思わず手を合せました。少しして「おい、幸三さや、あの薬師さまは前からあっただかや」と、不思議そうに定七が聞きました。                    

「さて、どうだったやあ。小さなお堂みたいなものは、あった気がするが…、薬師さまがいたなんて知らなかったわな」。三人とも薬師さまのことを知りませんでした。                      

そこへ庄右衛門たちがやって来ました。「お前たちが行ってすぐに、あの土手が切れてこんなことになっただよ。それでもあの薬師さまは、ずっとああやって 座っておるだ。どこから出て来なさったか、みんなに聞いただが分からねえだよ」と、庄右衛門たちも口ぐちに話しました。

          Photo_6             (薬師さまが祀られている東明山慈光院のお堂)

庄右衛門が、気を取り戻したようにいいました。「あの薬師さまのお姿を見て、おらたちも元気 を出すだいなあ。こんな水くれえに負けねえで、早く田んぼを元通りにするだいなあ。どうだ、みんな。早く雨が止むように、悪りぃ病気が流行らねえようにお 願いするかいなあ」。村人たちはうなずき、薬師さまを拝みました。

次の日になると、それまでの雨がうそのように、ぴたりと止みました。そして、梅雨が明けたような夏の日差しになりました。水も引けてきたので村の人たちは、後片づけを始めました。

それから、あの大雨の中、励ましを与えてくれた薬師さまをいつまでもそのままにできないと話し合い、小さなお堂を建て末永く祀りました。

                                                                                              * 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参考にしました。                                                   

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矢原の庚申さま~穂高・矢原

穂高の矢原公民館の敷地の横の立派なお堂のなかに、ひっそりと西を向いて立っている庚申(こうしん)さまがあります。庚申さまの台には「元文三年」と記されています。この庚申さまにまつわる昔話です。

むかし、矢原にじさまとばさまが一人息子の鉄太郎と暮らしていました。鉄太郎は、生まれつき耳が聞こえず口もきけない若者でしたが、村一番の力持ちでした。

ある時、三人で野良仕事に出かけることになり、じさまが先に家を出ました。いつも通る権現池のそばまで来た時、「ひゃあーっ」と悲鳴をあげてしまいました。
権現池の中から、真っ赤な火が噴き出しているではありませんか。じさまは、ぶるぶるふるえながら、その火を見つめていました。

           006                        ( 庚申さまは、はじめ矢原神社の境内に祀られていました )

すると、その火の中から、髪の毛が炎のように逆立った青色の身体の仏さまが現れました。その仏さまが、かすれた声で「世に出てえ、世に出てえ」といいました。

じさまは恐ろしさのあまり、立ったまま動けなくなってしまいました。そのとたん、火も仏さまも跡形もなく消えてしまい、いつもと変わりのない権現池の風景となりました。
まもなく、ばさまと鉄太郎が来ましたので、じさまは今見たことを話しました。

その夜、じさまは、村一番の物知りの助じいを訪ね池で見たことを話しました。助じいは、「ほう、そりゃあ、むかし矢原神社の側に祀ってあった庚申さまかもしれねえぞ」といいました。

助じいの話では、秋祭りの夜に酒に酔った村の若い衆が、「ご利益のない庚申さまなんぞ池へ捨てちまえ」とみんなでかついで権現池に放り込んだことを年寄りから聞いた覚えがあるというのです。

             017            ( 鉄太郎が担いだ庚申さまは身の丈1㍍余りの大きく重いものでした )

そして次の日、村の衆が集まり、池の水や泥を汲みだして庚申さまを探すことになりました。しかし、庚申さまはなかなか見つかりませんでした。とうとう日が西の山に入りかけて、今日の作業は打ち切ろうと話していたとき、「あったぞう」の声が上がりました。

荒縄で結わえ、「せえの、せえの」とみんなでその石を掘り上げてみると身の丈1㍍くらいもある泥まみれになった庚申さまでした。「もったいねえことだ」と口々にいいながら庚申さまをきれいに洗いました。

     012                         ( 矢原の庚申さまは今、立派なお堂の中に祀られています )

すると、ばさまが「鉄、この庚申さまをおぶって郷倉(ごうぐら=飢饉などに備えた食糧倉庫)まで運んでくりょ」と手まねで鉄太郎にいいました。鉄太郎はにっこりしてうなづきました。
鉄太郎は、縄が肩に食い込むほどに重い石の庚申さまを背負って、ひと足ひと足踏みしめながら郷倉まで運んでいきました。

郷倉まで運んで鉄太郎は庚申さまを下ろしました。「あぁあ、重かったぞよ」 鉄太郎が大きな声でいいました。 

「あっ、鉄がしゃべった」と、その声を聞いた村の人たちは、顔を見合わせ鉄太郎を囲みました。「鉄、ほんとにおめえがしゃべっただなあ」「ああ、重かったよう」-この声を聞いてじさまとばさまはうれし泣きに泣きました。村の衆も、もらい泣きしました。「ありがたや、ありがたや。庚申さまのご利益だ」とみんなは口々にいいながら手を合せました。

           132            (鉄太郎が庚申さまを運んだ郷倉の跡に、現在は矢原公民館が建っています)

今でも年に一度の初庚申の日には、矢原のお宮の氏子たちが、七色の吹き流しや旗を立ててお祭りしているということです。

 

       * 『 あづみ野 穂高の民話 』(安曇野児童文学会編)を参考にしました。

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友だちに化けたキツネ~豊科・新田

豊科の新田に、法蔵寺というお寺があります。むかし、このお寺の周りは、広く大きい松林でした。山門をくぐって広い道を歩いて行くと、両側に見える林は大きな松が傘をさしたように枝をはり、地面には草が茂っていて、昼間でも薄暗くなっていました。

     103_2         (宝蔵寺の山門。今でもこの右手に大きな松林になっています)

このお寺の本堂の下に、一匹のキツネが棲んでいました。年とったキツネですので、人間に化けるのがとても上手でした。

本 堂の北にある、観音さまのお祭りの日のことです。山門から本堂の近くまで店が並び、朝から大勢の人でにぎわっていました。平吉は、お祭りへ行って夜店で 売っているミズアメが食べたくてしかたありません。母親に言うと「そんねに遊んでばかりいねえで、ちっとは仕事しろや」と許してくれません。

仕 方がないので平吉は、夜になるのを待って、家からそっと銭を持ちだし、友だちの新蔵とお祭りへ出かけました。二人は、夜店をのぞいたり、アメを買って食べ たりしてぶらぶら歩いていました。そのうちに平吉は、新蔵とはぐれてしまいました。あっちこっちと探しましたが、大勢の人なので、分かりません。

     Photo_5           (稲が元気に実ったころ、夏祭りが開かれました=新田地区の水田)

「しょうがねえな。残った銭で、ミズアメでもなめて、けえらずよ(帰るとしよう)」。平吉が店でミズアメを買っていると、後ろから肩をたたくものがいます。振り返ると、それは、はぐれた新蔵でした。「どこへ行ってただや。おら、探しただ」。

すると新蔵は「おら、小便したくなったで、ちょっと林の中へ行ってただわ」と、いうのです。そして、「もっと、うめえ店があるで、おらがおごってくれるわ」と、平吉の手を引っ張って歩きだしました。

夜店を通り抜け、山門を出てどんどん歩いて行くので、平吉は、不思議に思って聞きました。「新さやい、どこへ行くだや。店でおごってくれるじゃねえだかや」というと、「今夜はな、隣の成相(なりあい)でも祭りだぞ。そっちへ行ってみるじゃねか」と新蔵は答えました。

どんどん歩いて行くと、そのうち新田堰へ出ました。すると、新蔵は「平吉さやい、おらをおぶって渡ってくんねえか。おごってくれるで、いいじゃねえか」と、いうのです。平吉は、しかたなく新蔵をおぶって堰を渡りました。

           Img_6105_3           (穂高・有明山神社裕明門の極彩色の天井絵に描かれているキツネ)

そのうち背中の新蔵が、平吉の頭の毛をペロペロとなめるのです。「新さやい、何をするだや」と平吉がいうと、「おら、キツネだぞ。おめえは親の言うことも聞かねえ、がった息子(きかん坊)だそうじゃねえか。ひとつ、おらがいじめて(こらしめて)くれるぞ」といいます。

平吉は、キツネを背負っていたことに気づき、急に寒気がして、冷や汗が体中から噴きだし、足がガタガタ震えだしました。それでも背中のキツネは「おらの言うとおりにしろよ。しねえと、えれえめにあわせるぞ」と、強く言います。

平吉はしかたなく、キツネが「あっちへ行け」「今度はこっちだ」と、言われるままに川の中をキツネを背負って歩きまわりました。

          080                                (緩やかに流れ、水田に水を運ぶ新田堰)

平吉は、フラフラになりました。もう我慢ができなくなり、背中のキツネをザブーンと川の中へ放り込みました。そして、一目散に家へ逃げ帰りました。家に帰った平吉は、それから長いこと、病人のように寝込みました。

そして、ようやく元気になった平吉は、「おっかさまの、いうこと聞いていりゃ、あんなこええ(怖い)めに遭わなかったで」と後悔し、それからよく家の手伝いをするようになったということです。

 

      * 『 安曇野の民話 』 (平林治康著)を参考にしました。

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山犬のお返し~明科・中村

むかし、天狗山にはたくさんの山犬が棲んでいました。頂上の近くには、大きな松の木が何本もあり、太い根があちこちに張り出していました。

山犬は、この根を利用して穴を掘り、棲みかにしていたといいます。そのうち、仲間が増えだし松林や雑木林の中まで棲みつき、天気のよい日は遊びまわって遠吠えする声が里のほうまで聞こえてきて不気味だったそうです。   

ですから、中村から隣村へ通じる道は、山犬の棲みかの上を通っているところもありました。その上を歩いたときは「どんどん」と響くような音がしますが、山犬は人間を襲うようなことは決してありませんでした。

     Cimg5414                         (山犬が棲んでいたという天狗山方面)

ある時、吉兵衛が隣の村へ用事があって、この道を通りかかりました。すると、山犬がお産をしている最中に出くわせました。「こりゃ、えれえとこに出っくわしたな」と山犬を見ると、大きな口を開け目をむいてにらんでいます。

吉兵衛はこわくなって「丈夫な子をたんと産めよ。お七夜にはお祝いしてやるでな」といって、その場を通り抜けました。   

家に帰ってから、かみさんにそのことを話すと「そりゃ約束を果たさなけりゃ、この後はあそこを通れえんね(通れなくなるよ)。犬は魔物というだで」と、真剣な顔をしていいます。

吉兵衛も、つい口から出たこととはいえ、約束事は果たさなくちゃなんねえという気持ちになりました。それから七日目の夕方、かみさんに赤飯を重箱に詰めてもらい、天狗山まで出かけました。

           115(吉兵衛が、山犬にお産のお祝いに赤飯を詰めていった重箱は、こんな形だったかも…。=豊科郷土博物館蔵)

山犬の棲みかは、子犬のにぎやかな声がしていました。そばまで行くのは怖いので、穴の要り口に重箱を置き「さあ、約束のお祝いを持ってきたで」といって、あわてて逃げ帰りました。

そして、その翌朝のことです。「おまえさん、おまえさん。ちょっくら、ここへ来てみましょや」と、かみさんが呼びます。戸口へ行ってみると、昨日の重箱があり、中に小鳥が二羽入っていました。   

「おまえさん、どういうことだいね」「こりゃ、おどけたなあ(驚いたなあ)。犬がこんなお返しをしてくれるなんて」。せっかくのお返しなので小鳥の羽をむしり、料理して食べました。「うめえ小鳥だがどうやって捕っただいね」と、二人はそんなことを話し合い、久しぶりのごちそうに満足しました。

                            008               (山犬も含めた犬属の供養塔が明科・中川手の龍門寺に建っています) 

それからひと月ほどして、かみさんがまた呼びます。「おまえさん、こんだ(今度は)犬の子だわや」といいます。吉兵衛が戸口へ行ってみると、かわいい子犬が「クン、クン」といって、足元にじゃれついてきました。

「おう、あの山犬の子だで、こりゃ飼ってやらねばなるめえ」。かみさんは「おらの食うものも、ろくにねえっていうだに、こんな山犬の子を飼うだかい」といいます。「バカいうでねえ。飼わなけりゃ、天狗山の道をどうやって通るだ」というと「そういうこともあるねえ」と、かみさんも納得しました。   

その後、吉兵衛の家では、畑の作物もよくでき、商売もうまくいったといいます。   

                                                                           

      * 「あづみ野 明科の民話」(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。   

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