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2011年10月

安曇野に架かる橋(17)~オリンピック道路上の安曇野大橋

有明山麓を源流とする穂高川が、犀川と合流する少し手前に「安曇野大橋」が架かっています。

 

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20世紀最後のオリンピックとして平成10(1998)年に冬季長野オリンピックが開催されました。

これに先立ち、長野道豊科ICとジャンプ競技などの会場となった白馬を結ぶオリンピック道路が造られました。

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この道路上に穂高川をまたぐ形で「安曇野大橋」が架けられました。ですから、新道にできた最も新しい橋になります。

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中央部が高く、半円形に架けたそり橋を太鼓橋といいますが、この橋もそれで全長236mあります。

オリンピック道路は現在、「北アルプスパノラマロード」の愛称で呼ばれていますが、別名「安曇野わさび街道」ともいいます。

この沿道は安曇野の平地部で、湧水地になっています。この湧水を利用しワサビ栽培が盛んで、栽培地のすぐ近くを通ることから命名されました。

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しかし、道路標識や観光地図では「パノラマロード」が多く使われています。この橋の上から一望できるパノラマは近年、人気のようです。

交通量も多いので、わき見運転はできません。観光スポットの早春賦歌碑公園や、大王ワサビ農場なども近くになります。

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赤く染まったスズランノキと甘い果肉のアケビ

秋の深まりとともに、安曇野も、ハーブスクエア周辺も紅葉が始まっています。 

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画像右奥に見えるゴールデンアカシアは、すでに黄葉した葉の半分近くを落としたでしょうか。変わってガーデン内のスズランノキが、鮮やかな赤色を見せ始めています。

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スズランノキの紅葉は、葉に照りがあり赤色をいっそう際立たせてくれます。「舞踏会のドレスみたい」と表現した方がいましたが、短い季節見る目を楽しませてくれます。

葉の間に白く見えるのは、スズランに似たベル形の花です。赤とのコントラストが絶妙で、やがて葉が落ちても、花姿は来春の芽吹き時まで残ります。

スズランノキは、スズランに似た花をつけることからきた俗名で、オキシデンドラム・アーボレウム(学名)が本来の名前です。和名は未だないようです。

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スズランノキの近くのアケビの実も割れて、果肉を見せています。ゼリー状の甘い果肉と黒くて丸い2~3mmの種が入っていて、昔の子どもにとっては山遊びした時の絶好のおやつに替わるものでした。

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ハーブスクエアからも望める後立山連峰の峰々は、すでに冠雪しています。

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髪と地肌をすこやかに保つローズマリーのヘアケアシリーズ

髪と地肌をやさしく守る成分を含んでいるローズマリー。ローズマリーから抽出した精油、エキスを配合したヘアケア品をご紹介します。

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ローズマリーのせっけんシャンプー」は、釜焚き製法の液体石けんに、タピオカのでん粉を由来とするアミノ酸とヤシ油脂肪酸からできるアミノ酸石けん(ヤシ脂肪酸アルギニン)を配合しています。

この配合によって泡立ちが良く、石けんシャンプー特有のきしみ、ごわつきを軽減し、フケやかゆみを取り除いて地肌を爽快にします。

このシャンプーに対応したのが酸性ヘアリンスの「ローズマリーのPHバランスリンス」です。クエン酸と天然系高分子セルロースの働きで、洗い上がりの櫛どおりの良さを保つほかローズマリーの精油、エキスの配合で、髪と地肌をすこやかに保ちます。
髪や地肌のコンディションを整えるだけでなく、肌にも環境にもやさしいヘアリンスです。

やはり、石けんシャンプーに対応するのが「ローズマリーのトリートメント」です。髪と地肌をやさしく守る成分を含んでいるローズマリー精油、エキスと保湿作用のあるホホバ油とタピオカのでん粉からとれるアミノ酸を原料にしたコンディショニング剤の働きで、キューティクルを保護します。
有効成分が髪の内部までじっくり浸透し、石けんシャンプー特有のバサつきを解消し、髪をしなやかにします。

 ローズマリーのせっけんシャンプー(写真右) 400ml    861円(税込み)
 ローズマリーのPHバランスリンス(写真中)  400ml    861円(税込み)
  ローズマリーのトリートメント(写真左)             180g   1,155円(税込み)

* 〔 ローズマリーのヘアケア シリーズ  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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信州の街道筋に鍾馗さんを探して-2  善光寺西街道(乱橋宿~青柳宿)

善光寺西街道は、会田宿(松本市四賀)の外れにある常夜燈を過ぎると立峠(998㍍)という山越えに入ります。この峠道は昔の人々にとって難儀な道だったようです。

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この峠を越えると、乱橋(みだればし=筑北村)に着きます。ここは間宿(あいのしゅく)より小さな立場(たちば)で、本来の宿場と違って休憩用の場所が何軒かあった“宿場”になります。立峠を越えてきた旅人は、ここでひと息いれて旅を続けたことでしょう。         

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乱橋大門の鍾馗さんは、おっとりとした表情をしていました。悪霊払いしっかりね。

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乱橋は、今でも昔からののどかな里山の風景が残ります。

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乱橋宿には、もう一体の古い鍾馗さんがあります。この鍾馗さんを眺めることができるのは、細い小路からでこの角度になります。

右手の剣は欠損しているのですが、こう見ると何か踊っているような姿に見えます。「踊る鍾馗」とでも名付けましょうか。

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乱橋を抜けて、西条宿(にしじょうじゅく=筑北村、ここも立場)へさしかかると高い屋根に見えた、かなりの年代ものと見える瓦鍾馗さん。

さらに足を運んで筑北村青柳へと向かいます。

三方を山で囲まれた青柳宿は、急な坂道沿いの600㍍ほどの両側に宿場がありました。坂の宿と言ってもいいかもしれません。街道の起点となる洗馬(せば)宿から数えて、7番目の宿場になります。

人家は盛土して石垣で土止めした上に建っています。

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坂道の片側の石垣の下に用水路が造られ、水が流れています。石で組まれた階段があり、かつては生活用水として利用されていたことが分かります。

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青柳宿にも一体の鍾馗さんがあります。

青柳地区では里坊稲荷神社の春の例大祭に合わせ、7年に一度「キツネの嫁入り行列」が村をあげて行われます。

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青柳宿から麻績宿へ向かう途中にある切通しです。案内板には「街道随一の名所」と記されています。この切通しは、長さ27㍍、幅3.3㍍、高さは6㍍あります。       

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天正8(1580)年に切り開かれ、その後江戸期に三回にわたって切り下げられています。岩の右手上部に普請記録が残されています。この切通しの開通により、街道の通行が容易になったことが偲ばれます。

切通しは、今でも手ノミの跡を残しています。

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岩州の山犬~明科・岩州

むかし、ある日の夕暮れ、岩州(いわす)の峰道を一人の猟師が、道に迷って歩いていました。会田の猟師、佐助でした。佐助は腕のいい猟師で、いつもは山鳥を少なくても十羽は取る名人でしたが、この日は朝早く家を出たのに一羽も獲れません。

それどころか、山深く入ってしまい帰る道が分からなくなってしまったのです。佐助にとって、道に迷うということは初めてのことでした。

          155 (むかし、この周辺の猟師が使用していた銃と弾丸=穂高郷土資料館蔵)

「西へ西へと向かってきたんだから、東へ行けば善光寺街道へ出るはずだ」と考え、気を取り戻して東へ向かって歩き出しました。すでに夕闇になっていて、後ろの方からフクロウが鳴きました。

一日中、とび歩いたせいか、さすがの佐助も疲れを感じ、思い通り急げません。腹も空いて、なんとかこの山の中から抜けだしたい一心でした。

           092_2                                        (佐助が迷ったという岩州の山道)

しかし、行けども行けども善光寺街道は現れません。本当にこの方角でいいのか、不安になってきました。                                    

佐助は、今来た道と前に続く道をなんども見ては、このまま進むか、引き返すか迷っていました。そのとき、前の木陰に提灯(ちょうちん)のような灯りが見えました。「こんな山の夜道で人に出会うなんて…」と佐助は、うれしく思いました。

提灯の明かりのなかに見えたのは、娘の顔でした。「善光寺街道へ行くには、この方向でいいですか」とたずねると、娘は「そうです。わたしも行くところです」といい、一緒に向かうことになりました。                                    

これでやっと家に戻れると思うと、元気がでてきました。娘の後に、佐助は続きました。しかし、娘はどんどん先を歩き、佐助との間が離れていきます。佐助が一生懸命歩いても、なかなか娘に追いつくことができません。佐助は、ここで離れると、また道に迷うと思い小走りして娘の後について行きました。                                    

やがて、あの大きな足音が止りました。前を見ると、娘の姿がありません。そして、近くの岩の上に山姥(やまんば)が立って、ニヤッとし大きな舌で、舌なめずりをしていました。

     Photo          (利助を襲った山姥は、このような形相だったのでしょうか?=有明山神社裕明門)

山姥が娘に化けて自分を襲うため連れまわしたのだということを、とっさに判断し、背に担いでいた鉄砲を下ろし、山姥めがけて撃ちました。しかし、山姥はびくともしません。それどころか、利助に迫って来ました。                                    

そのときです。暗闇の中から山犬が飛び出してきました。そして「提灯を撃て」と、山犬が佐助にいいました。山姥は、あの足の速さで利助のすぐ近くまで来ていました。そして、佐助に飛びかかろうとした瞬間、佐助も提灯めがけて鉄砲の引き金を引いていました。

     219_2(山犬も想像上の動物ですが、狛犬像などにその姿が描かれているものがあります。この像は、山犬の精悍な風貌を表しています。=岐阜県下呂市の狛犬博物館蔵)

「ズドーン」。周りの山に銃声がこだましました。そして、佐助の足もとに大きな岩のようなものが転がって来ました。よく見ると、血を流した大きなタヌキでした。山姥の正体は、古ダヌキだったのです。

佐助は、山犬に助けられた後、その山犬に導かれて善光寺街道に出ることができました。しかし、街道が近くなった辺りで、山犬の姿が佐助の前から消えてしまいました。

           086(娘の姿から山姥に変身して佐助を襲ったのは、タヌキだったということです=大町山岳博物館所蔵の標本)

その後、無事に家に戻った佐助は、あの山犬は山の神のお使いだったのではないかと思うようになりました。そして、山犬に助けてもらった岩の上に山の神の祠を建て、祀りました。

 

       * 『 明科の伝説 岩穴をほった竜 』(降幡徳雄著)を参考にしました。                                 

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安曇野に架かる橋(16)~かつて遡上する鮭が見られた白金橋

北アルプスの雪解け水が沢をつくり川となって流れ下ってきますが、平野部に出てからその姿を消してしまいます。砂礫層に吸い込まれるようにして、水の流れが消えてしまうのです。そして扇状地の先端部あたりで、こんこんと湧水となって再び姿を現します。

穂高から豊科地域にかけての湧水群では、日量70万㌧に及ぶといいます。湧水は、水道水やワサビ栽培、ニジマスの養殖あるいは精密機械などの製造工程など多方面で利用されます。

湧水の水は再び川を形成して流れを造るのですが、新たな川は万水川(よろずいがわ)と呼称されます。

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万水川は、満々と水を張り矢原、白金地区を流れます。近代彫刻の先駆者となった荻原禄山は、矢原に生まれ育ちました。禄山はこの万水川と、川べりから望む常念岳をこよなく愛しました。

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「己れ汝が辺りに草刈りつ、汝の清姿に面を洗ひつ、汝の辺りに蛍を追ひつ、汝の辺りに蛙を聞きつ、汝が辺りに月を楽しみつ」と、滞在したニューヨークから送った書簡の中で万水川に郷愁を寄せています。

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この万水川に「白金橋」が架かります。架けられた当初は土橋で、禄山の書簡は明治39(1906)年に記されていますので、禄山は土橋の白金橋を何度も渡ったことが伺えます。

明治38(1905)年に修復されています。現在の橋は、昭和48(1973)年に架け替えられたものです。         

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かつて、この万水川に産卵のために鮭が昇ってきたといいます。万水川は北へ数キロ流れた先で犀川と合流しますが鮭は日本海から信濃川(犀川)を遡上してきますので、鮭は子孫を残すためにはるばる300㌔㍍の長旅をして、源流の湧水まで帰ってきたことになります。

今は犀川のダムやコンクリート護岸で、まったく鮭の姿を見ることができないのはいうまでもありません。

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今年の安曇野スタイルは、11月3~6日まで開催されます

「紅葉が色づいた安曇野をゆったり散策し、アート、自然、暮らしに触れてみませんか」という安曇野スタイルが、11月3~6日までの4日間開催されます。

安曇野に根づいた個性豊かな文化(アート、自然、暮らし)を通して、安曇野の魅力を全国に発信しようという取り組みで、今年で7回目を迎え95会場、119組が参加します。

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安曇野で創作活動している様々な分野の作家の、いつもは見られない工房を期間中特別に公開したり作品を展示するほか、美術館、ギャラリー、飲食店、宿泊施設などが協賛する形で創作体験や特別メニューなど会場ごとに特別なおもてなしをしようと準備を進めています。

ハーブスクエアも参加していて、工房でブレンドしているハーブティーのテイスティングやドライフラワーアレンジメントの作品を展示します。

「染まり行く秋の安曇野で心豊かなお時間をお楽しみください」と主催者は呼びかけています。

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信州の街道筋に鍾馗さんを探して-1  善光寺西街道(刈谷原宿~会田宿)

長野の善光寺は古くから人々の信仰を集め、多くの参詣客が足を運びました。各地から善光寺に通じる街道は、庶民の間では「善光寺街道」と呼ばれていました。

中山道洗馬宿(せばじゅく=塩尻市)の追分から北上し、城下町松本を通って険しい山間部を抜け、長野に至る善光寺西街道は正式には北国西街道(往還)といいます。      

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昔から魔除けとして屋根に飾られてきた鍾馗さん。

特に奈良や京都など関西には広く分布していますが、ヒト、モノ、カネが行き交う街道筋には、こうした生活文化の情報も当然もたらされたはずです。

となると、西国の旅人から鍾馗さんを飾る風習について信州人の耳に入り、宿場などの屋根に飾られているかもしれないと思い立って北国(善光寺西)街道に沿って、瓦鍾馗の探索に向かいました。

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安曇野の東側を南北に走って長野の善光寺へ向かう街道筋を、刈谷原、会田、乱橋、青柳、麻績、稲荷山までの旧宿場を巡りました。

最初に訪れた刈谷原宿(松本市)では、鍾馗さんに巡り会えませんでしたが、立派な門構えのある宅の大棟に対で鬼瓦が飾られていました。

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その鬼瓦の下の妻面に鏝絵があります。残念ながら隣りの棟に隠れてしまい、何を描いたものかは分かりません。

刈谷原宿から会田宿(松本市四賀)へ向かう途中、道を外れて松本街道の保福寺宿を流してみると…。

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曹同宗末寺の保福寺本堂の上に狛犬と蓮の飾り瓦が据えられています。

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近くの民家にも実に豪華な文字瓦が複数体掲げられています。刻んでいる文字も麒麟(きりん)であったり神であったり、別の棟には根という文字もありました。

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さらに四賀の中川地区に立ち寄ると…

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実にひなびた田舎にあるといった風情で鍾馗さんが屋根に乗っていました。

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荒作りですが、なかなかいい味を出しているではありませんか。

会田宿の交差点の坂道を登ると、古い木造校舎が保存されています。旧会田中学校で、開校していた50年の間に、この校舎で6千2百人が学んだそうです。

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道を挟んだ向かい側に会田小学校があります。その一部にやはり古い木造校舎があります。

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この校舎は現在も使用されているようです。その入り口の鬼瓦に…

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「學」の文字です。この鬼瓦で学びの精神注入といったところでしょうか。

戻って会田の宿跡へ。

街道の中でも大きな宿があった会田宿は、往時を偲ばせる道標も残っています。長い年月の間に、「善光寺道」の善の部分が無くなっています。

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宿場跡には、今も白漆喰となまこ壁の旅籠の匂いがする建て物も点在します。そして旅籠だったことを偲ばせる屋号の看板も、多くの家で掲げています。         

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復元された井戸でしょうが、釣瓶(つるべ)まで付いています。

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この井戸のある周辺を探索すると…鍾馗さんがいました。

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憤怒の形相とでもいうのでしょうか。口を真一文字に結び、眼光鋭く一点を見つめています。目の先には、厄神でもいるのでしょうか。

横向きに設置されていて顔を正面からのぞくことができませんが、重量感、威圧感がありますね。

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作られてから相当な年月を経ているのでしょうか、顔から上半身にかけて摩耗しています。

全国からの善男善女が詣でた善光寺参りは江戸期に盛んで、その道すがら旅籠に泊まったわけですから、その頃のものかも(?)しれません。

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こちらの鍾馗さんも古さでは負けていない風格が滲んでいます。

宿主が泊まった客の、道中の無病息災を願って鍾馗さんを飾ったのでしょう、きっと。

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この鍾馗さん、サーフボードにでも乗っているように見えませんか。両手でうまく波に乗るためバランスを取っているような…。

顔の表情もやや強ばっているように見えます。名付けて「サーファー鍾馗」としておきましょうか。

旧宿場に鍾馗さんがいるかもしれないという仮説、さっそく“あたり”がありました。会田宿では、このほかにも2体の瓦鍾馗を見つけることができました。

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宿場の外れに今も二基の常夜燈が残ります。安政2(1855)年に寄進されたものです。この先は、街道のなかでも難所の一つとされた立峠へと向かいます。

しかし、峠道は車は走れませんので、大回りして乱橋へと向かいます。

 

 

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メディカルハーブ-19   リンデン

初夏に芳香のある黄緑色の小花を無数に咲かせるリンデンは、原産地のヨーロッパでは街路樹として親しまれています。

和名はセイヨウボダイジュですが、東洋の菩提樹とは別の品種です。リンデンはドイツ語、英語ではライムと呼び、樹高は40㍍ほどになります。    

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メディカルハーブとして使用する部位は、花と苞(ほう)と小枝で、うっすらと甘味があり、上品な香りがあり他のハーブとブレンドすると、よく味を調えるハーブです。

リンデンには鎮静作用があり、緊張緩和や不眠症に効果があります。神経質な人、怒りっぽい人にもおすすめのハーブです。

花に含まれているビオフラボノイドという成分が血圧を下げ、動脈硬化、心筋梗塞などの予防に役立ちます。発汗を促進し、熱を下げる効果もありますので、風邪やインフルエンザに罹った時にも有効です。

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小枝の部位には、腎臓の機能を活性化させる効能が知られています。利尿作用や悪玉コレステロール(LDL)を減少させる効果もあります。

◆ 和名     フユボダイジュ

◆ 学名     Tilla cordata 

◆ 主要成分  フラボノイド配糖体(ルチン、ヒベロシド、ティリロシド)、粘液質(アラビノガラクタン、タンニン、フェノール酸(カフェ酸、クロロゲン酸)、精油(ファルネソールなど)

◆ 作用     発汗作用、解熱作用、利尿作用、鎮静作用、消化促進作用、血圧降下作用、コレステロールの低減、腎機能の改善

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子育て地蔵~三郷・二木

むかし、二木沢近くに、長三は年とった母親と二人で住んでいました。少しばかりの田畑を耕し、暇を見つけては他所(よそ)の手伝いをするなど、それはそれはよく働きました。暮らし向きも少しずつ良くなったので、嫁さんを迎えました。

やがて、嫁のはつに子どもができ、お産のために実家へ帰りました。ところが、とても難産で子どもは生を授かることなく、はつは産後の肥立ちが悪く床についてしまいました。       

肩を落とした長三は仕事が手につかなくなり、いつしか酒を飲み、家でぶらぶらしている姿が目につくようになりました。

ある日のこと、酒に酔いつぶれた長三が道端に寝ころんでいると、通りかかった和尚さんが「さあ、起きなされ。昼間から酒を飲んで寝ていてはいかんのう。わしと堂まで行きなされ」と諭して、地蔵堂まで連れていきました。

     Photo               (二木の十字路の一角にある地蔵堂)

そして、茶を飲ませ酔いを覚まさせてからいいました。「あれほどの働きものだった長三さんが、こんな荒れた生活をしてはいかん。もう一度、子が授かるようにわしがお地蔵さまにお願いしてみよう。あのお地蔵さまの下には、お経が埋めてあるから、きっと願いを聞き届けてくれようよ」との言葉に、長三は喜びました。       

「わしはすぐにお経をあげるから、長三さんも仕事に行きなされ」といわれ、長三はふたたび働く望みが出てきました。それから長三は以前のように毎日働き、やがてはつも元気になって戻って来ました。

しばらくすると、はつが二度目の子どもを身ごもったことが分かったので、長三は地蔵堂の和尚さんのところへ行きました。「女房が身ごもりましたので、どうぞ今度は安産のお願いをしてくれねえかい」とお願いしました。

和尚さんは「そうか、そうか。それは良かったのう。さっそく延命地蔵尊にお願いするとしよう。それで、長三さんは、おはつさんと赤ん坊のよだれかけを作り、お地蔵さまにお願いしてかけるのじゃな」といいました。

     Photo_8   (お地蔵さまに赤いよだれ掛けと帽子がよく似合うのかもしれません=三郷・慈光院で)

長三ははつと一緒によだれかけを作り、地蔵さまによだれかけを掛けてお参りを続けました。それから、半年ほどして、はつは元気な男の子を、さほどの苦しみもなく産みました。母親も初めての孫の顔を見てたいへん喜び、長三はうれし涙を流しました。赤ん坊は毎日元気な声で泣き、家の中は明るさにあふれていました。       

長三は、はつによだれかけを作らせ、赤ん坊を抱いて地蔵堂へ行きました。「和尚さま、おかげさまで元気な男の子を授かりました。ありがとうごぜえました」といって、なんどもなんども頭を下げました。

和尚さんは「良かったのう。これも延命地蔵尊のおかげじゃ」というと、長三は「和尚さま、また一つ頼みを聞いておくれや。この子が丈夫に育つようお地蔵さまにお願いしてくれねえかい」と、親としてのお願いをしました。和尚さんは快く引き受けてくれました。

長三とはつは、持ってきたよだれかけをお地蔵さまに掛け、お米とわずかばかりの心をこめたお金を供えて、足取りも軽く家へ帰りました。

                                  Photo_2(地蔵堂前に道祖神が祀られています。これも願いがかなって寄進されたものかもしれません)

このことを聞いた村の人たちは、お産の日が近づくと願いをこめてよだれかけを作り、お地蔵さまに掛けてお願をするようになりました。

そして、お産が無事にすむと、お礼に新しいよだれかけを掛けにくるようになったといいます。それから、このお地蔵さまを「子育て地蔵」と呼ぶようになりました。

 

                   * 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参考にしました。

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安曇野は木の実が色づき、秋の訪れを感じさせます

信州の標高の高い山地は、すでに紅葉が始まっています。

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写真は北信濃・戸隠の鏡池の昨日の模様です。

安曇野はここのところ寒暖の差が激しく、朝夕の冷え込みは肌を刺すほどです。薄着でいると、身ぶるいするような日も多くなってきました。

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こうした天候、気温の影響でしょうか、今年の実をつける樹木はいつになく早く、色鮮やかにも見えます。

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ナナカマドは、野山に、庭に、街路樹などによく見られる木ですが、濃い橙色の実を房状につけています。

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ウメモドキの赤色の実も日ごとに色鮮やかさを増し、たわわに付けているのを見ることができます。

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ウメモドキの実は葉が落ちても長い期間枝についていて、しばらくは自ら落下することがありません。雪が降って野鳥たちの食糧事情が悪くなると、ついばみに来てやがて実はなくなってしまいます。

それまで赤く染めながら、野鳥たちのお腹に納まるのを待っているかのようです。

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その野鳥たちもとてもかなわないのが、ザクロの実です。実が大きい上に、くちばしでつついても穴を開けるようなことはできない固さです。

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こうした木の実が色づくとともに、安曇野の秋は深まって行きます。

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ネズミ除けの猫づら瓦

豊科田沢の土蔵に併設した物置の軒先に、こんなデザインの瓦が飾られていました。何に見えますか?   

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猫面(ねこづら)という鬼瓦の一種で、猫の顔を模っていることから、この名が付いたということです。

「なぜ猫顔の瓦が軒先に?」に答える資料があります。

「鬼面や鍾馗とはその性格が異なりますが、外からの侵入を防ぐという意味では、猫づらもその仲間といえ ます。猫づらは棟の端を止める鬼瓦よりも簡略な瓦で、その姿が猫の顔の形に似ていることからその名があります。養蚕農家ではネズミ除けのまじないとしてこ の猫づらをのせました」(『信州の瓦屋と三州の渡り職人~屋根瓦は変わった』 長野市立博物館発刊)    

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安曇野はじめ、信州はかつて養蚕が盛んでした。比較的短期間に現金収入が得られるということもあり農家の副業として「お蚕さま」が飼われていました。         

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昭和31(1956)年の頃の蚕を飼っていた農家の写真です。

一家総出の仕事ですが、写真説明では「かき取ったマユをケバ取り機にかけて、汚れたマユを選別する。このあと乾燥して出荷する」とあります。

猫の顔に「水」の文字を竹べらで刻み、猫の目鼻に見えるデザインにしています。

蚕室が火災に遭うと現金収入の道が閉ざされてしまいますので、水に火除けの願いを込めています。

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しかし、日常的に養蚕農家を悩ませたのは、ネズミによる食害だったといいます。蚕の卵はもちろん、幼虫や蛹(さなぎ=繭玉)まで当たり構わず食べてしまったということです。

このため養蚕農家では、ネズミの天敵である猫を飼って被害の防御に努めたり、猫面瓦をお呪いとして飾ったということです。

今でこそ猫面瓦の数は少なくなって目にする機会も多くはありませんが、かつては蚕室の軒にたくさん見ることができたことでしょう。

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すっかり衰えてしまった養蚕業ですが、養蚕技師が設計した 稚蚕所(ちさんしょ)が安曇野市堀金に残っています。

床が高く、床下に炉を切り、薪で暖めて飼育したということです。 屋根に換気塔がつけられています。

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初めて安曇野市田沢で猫面を見てから数週間後、善光寺西街道の旧桑原宿(千曲市)で見かけた猫面瓦です。

こちらの猫面の顔には紋様が刻まれています。何の模様か分かりません。

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さらに小諸市内でも見かけました。菊花と波があしらわれています。

瓦鍾馗の研究家・服部正実さん(京都市在住)の話では、滋賀県内で猫の顔の部分に帆掛け船を彫ったものを見ているそうです。いろいろなバリエーションがあっておもしろいですね。

* 白黒写真は「懐かし写真館 昭和の街角 大町 安曇野 北安曇」(郷土出版社)から撮りました。

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安全なオーガニック入浴剤でリフレッシュタイムを

「直接肌に触れるものだから、安全な素材で作られたものを使いたい」-こうした想いから作られたオーガニック入浴剤「オーガニック バスミルク シトラス」をご紹介します。

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このオーガニック入浴剤は食品レベルのオーガニック認定をクリアした原材料を使用していて、オーガニック認定成分比は93.2%になります。

オーガニック認定は、世界でも最も厳しいといわれるオーストラリアの認定機関ACOの認定を取得しています。ここの認定基準は水と塩以外の配合成分のうち、95%以上がオーガニック原料、残りの5%も天然成分を使用していることがクリアの条件になっています。

オーガニック バスミルク シトラス」に配合されている主な香り成分は、グレープフルーツ、ライム、レモン、ラベンダーなどの精油成分からなっていて、シトラス系のフレッシュな香りで、日常のストレスから解放され、ゆったりとした気分を味わえます。

また、肌を引きしめ代謝作用をアップさせ、体内脂肪の燃焼を促進し、利尿を促すほか、デオドラント効果で汗の匂いを抑えたりするのに効果があります。     

  オーガニック バスミルク シトラス    125ml    1,575円(税込み)

* 〔 オーガニック バスミルク シトラス  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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安曇野に架かる橋(15)~ワサビ田の上に架かる橋

北アルプスを源流として東に流れ出す川は、梓川、黒沢川、烏川、川窪川、富士尾沢川、中房川、乳川、高瀬川などがあり、これらの河川水の多くは途中で伏流し平野部になったところで湧出します。

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湧水は飲料用の生活用水、工業用水のほかワサビ栽培にも利用されてきました。ワサビは清流があって、初めて栽培できます。安曇野のワサビ年間生産量は750トン、生産額にして4憶円といわれます。

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このうち日本最大の生産規模を誇るのが大王わさび農場で、15haの広大な農場で年間150トンを生産しています。1日あたり12万トンの湧水が、この農場内に流れ込み収穫を手助けしています。農場内は見学できますので、多くの観光客が訪れ年間120万人にも及ぶといいます。

場内は水が流れていますので、橋が架かっています。一つは「幸いの橋」の名があり、途中に東屋風の屋根のついた橋で、もう一つは親水広場へ向かう橋ですが名前がありません。

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ワサビ栽培の様子は、穂高川沿いにある早春賦公園のすぐ近くにも見学できるところがあります。

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規模は大きくはありませんが、間近に見ることができるのが人気です。やはり名のない木橋が架かっていて、その上から見ることができる趣向です。

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三州からも鬼師が安曇野に技術習得にやってきた!

豊科新田にある銘の入った瓦鍾馗の後日談があります。

この鍾馗さんを制作したのが、明治元年から現在も瓦業を営む豊科田沢の増澤瓦店であることについて過日書きました。

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ここに実は、鬼瓦制作の相当な技術を持った鬼師がいて、鬼瓦の先進地・三州(現愛知県高浜市)からも技術修得に出稼ぎに来ていたという驚くべき事実が分かりました。 

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上の写真の鍾馗さんの制作者を調べている頃、瓦鍾馗の研究を続けているkiteさん(愛知県在住)から「信州の瓦屋と三州の渡り職人 屋根瓦は変わった」という資料をいただきました。長野市立博物館が平成10年に開催した特別展の時に刊行したものです。

長野県の瓦と瓦職人の歴史について考察しているのですが、その中に興味深い記述があります。

この増澤瓦店の創業者・増澤長次郎は、「明治元年に三州から職人を雇い田沢で瓦店を始めました。彼自身は瓦作りはできませんでしたが、三州の職人を雇うと同時に弟子も取って多くの瓦職人を育てました。その中には、地元の者はもちろんのこと、三州や山梨から信州に瓦作りを学びに来て、一人前の職人となって地元に戻って行く者も多くいたそうです」

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「どのような理由で、地元だけでなく三州や山梨からも弟子入りに来たのかは分かりませんが、瓦技術を学びに本場三州から来るほど、信州の瓦づくりの技術は三州にも引けを取らないものであったことが推察されます」というものです。

増澤瓦店の敷地の一角に「恩師増澤長次郎翁之碑」と刻まれた頌徳碑があり、長次郎の死後、三州鬼師を含む弟子たち総勢40数人が創始者を称えて建てたものです。

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三州といえば、全国にその名を轟かせた瓦の一大産地で、当然のことながらそこには高い技術を持った職人が集結、育成されていました。
その三州から安曇野に、技術習得のため職人が渡ってきていたというのです。

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増沢瓦店の屋根に、今も多数の鬼瓦や装飾瓦が乗っています。これらは当時の職人たちが作ったものなのでしょうか。

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そう思って見ると、なかなか味わいのある鬼瓦に思えてきます。

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時代の流れの中で高い技術力をもった瓦職人も今はいなくなり、手びねりの装飾瓦も作られていません。店の前には、量産された飾り瓦が見本品として展示されています。

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舟になった子ギツネ~明科・中条

むかし、中条に親子のキツネが棲んでいました。子ギツネは娘盛りで、昨年の秋に母キツネと一緒に見た、真っ赤に色づいた柿の実の鮮やかな色が忘れられません。母キツネは「今年は、川霧がよく出たので、柿の実がきれいなのよ」と教えてくれました。

その時以来、娘の子ギツネは「柿の実のような、真っ赤なかんざしが欲しいな」と強く思うようになりました。そして、川を渡った「踏入(ふみいり=豊科)のお祭りのときなら、かんざしも売っているかもしれない」と思いつき、踏入のお祭りには必ず行ってみようと心に決めていました。

ようやくお祭りの日が来ました。子ギツネは人間の娘に化けて舟に乗り、お祭りの開かれているところに着きました。夜店を一軒ずつ隅から隅まで、目を皿にして真っ赤なかんざしを探しました。

          024_2                   (中条と踏入の間は現在、橋が掛かり両岸を結ぶ舟の姿は、もうありません)

そして、最後の店でやっと欲しかったかんざしを見つけました。子ギツネは、嬉しくて嬉しくてたまりません。でも、ずいぶん時間がかかってしまったと思い、急いでお金を払って走って舟着場に戻りました。「しまった」。中条へ向かう最終の舟は、祭りの帰り客をたくさん乗せて出た後で、犀川(さいがわ)をゆっくりと渡っていました。

子ギツネは舟着場のそばの柳の木の根元に横になりました。すると、急にお腹が空いてきました。体の力もぐんぐん抜けていきました。「これじゃあ、とても泳いで渡れないわ。仕方がないから、今夜はここに泊まろう」と思ったら、すぐに眠けが襲って来ました。

                                  073                       (疲れた子ギツネが眠り込んだヤナギはこんな大木だったのでしょうか)

「おいおい。こんなところで寝ていちゃ、風邪ひくよ」と起こす人がいました。うっすら目を開けると、中条の源六じいさんでした。「さては、帰りの舟に乗り遅れたな。ハッハッハッ。そういうわしもだ。ご馳走をいっぱいいただき過ぎてな」と、満月のようなお腹をさすりながら、源六じいさんは子ギツネの横に座りました。

「じゃが、お前は舟がなくても泳いでいけるな」「それがね、お腹が空いて泳いでいけないの」と子ギツネがいいました。源六じいさんは「かわいそうにな。ご馳走ならあるで、ばあさんの好きなタイだけは残しておいてくれ」といって、お祭りでいただいてきたご馳走を子ギツネはの目の前に広げました。

              250_2(子ギツネが欲しかった柿の実のような赤いカンザシは、こんな感じだったでしょうか?=堀金歴史民俗資料館蔵)

子ギツネは、見る間に鮭や卵焼き、たけのこなどを平らげてしまいました。「源六じいさん、ありがとう。おかげで元気になりました。お礼に源六じいさんと、この川を渡れるようにします」と子ギツネは、さっそく木の葉に化けました。「おい、おい。これじゃあ小さくて乗れないよ」。

子ギツネは、もう一度化け直し、こんどは舟のような大きな葉になりました。ばあさんの好きなタイを手に持って、じいさんは大きな葉に乗りました。子ギツネの葉の舟は波の上を上手に渡り、源六じいさんはいい気持ちで中条の舟着場につくことができました。

子ギツネは、もとの姿に戻りご馳走のお礼をいったあと、急いで母キツネの待っている巣へ帰って行きました。その頭には、祭りで買った真っ赤なかんざしが、月の光に輝いていました。

家に戻った源六じいさんは、ばあさんにお土産のタイを渡し、おいしそうに食べるばあさんの後ろで窓から川べりの方を見て「あの子は、もう寝たかな」と独り言をいいながら、いつまでもながめていました。

 

       * 『 明科の伝説 岩穴をほった竜 』(降幡徳雄著)を参考にしました。

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安曇野に架かる橋(14)~白鳥飛来地に近い光橋

安曇野を南北を縦断する形で犀川が流れていますが、明科と豊科間を結ぶ橋が2本あります。そのうちの北側に架かっているのが光橋です。

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その昔は、「光の渡し」と呼ばれた渡し舟が人と物資を運んでいました。その後、木橋が架けられましたが、洪水のたびに橋の一部が流されるなどしてきました。

旧光橋はなんどか継ぎ足しの修復をし、趣があったそうです。画家の征矢野 久さん(安曇野在住)は、当時の光橋を水彩画で描き述壊しています。

「今は立派なコンクリ橋だが、明治、大正、昭和と犀川を渡る一本の大切な木橋だった。構造も立派だった。だが…軽トラが つっつき落ちた。『あぶない』と言って再建せず、この文化財は壊された」といいます。

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旧橋は幅員が1.4㍍、重量制限も1.2㌧まで、しかもなんどかの補修で傾斜ができてしまいました。

さらに昭和40(1963)年にも、またもや洪水で一部が流されたため流失した橋桁をコンクリート脚にする復旧工事が行われ、下の写真のように橋が波打ち、木橋とコンクリート部が混在し、軽車両しか通行できない世にも不思議な奇矯になってしまったということです。    

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復旧工事が終わる2年後まで、渡し舟が再び登場します。こうしたことから、平成3(1991)年に取り壊されました。

替わって平成13(2001)年、長さ440㍍、幅員14.5㍍の新橋になりました。橋桁も鉄筋コンクリートの堅固な橋梁に生まれ変わりました。

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橋は大きく孤を描き、後立山連峰から北アルプスの峰々や田園風景などが一望でき、眺めがよいことで人気のある橋となっています。

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シベリアから渡ってくる白鳥飛来地もすぐ近くで、冬期間も観察・見物に訪れる車が行き交う橋です。長野道・豊科ICもすぐ近くです。

* 白黒写真は「懐かし写真館 昭和の街角 大町 安曇野 北安曇」(郷土出版社)から撮りました。

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