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2011年9月

豊科新田の銘が入った鍾馗

豊科新田の路地裏を歩いていたら、鍾馗さんが目に飛び込んできました。naoさんが発見した瓦鍾馗が飾られている宅と、道を一本挟んだすぐ近くです。

珍しく銘が刻まれた鬼瓦です。左に「増沢製造」、右側に「二塲城山下」(塲は場の異体字)と読み取れます。

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そして、反対側に回るともう一体の鬼瓦がありました。

「ん…、これは何者?」

にこやかな表情、強い風を受け髪も衣服も左にたなびき、身体もこれに抗うかのように「く」の字に曲げ足に力をいれて踏ん張っているようです。

明らかに鍾馗さんでないことは確かです。

では、この人物瓦は何もの? これが知りたくて、そして、できれば制作者、制作年代なども分かればと思い、この銘を手掛かりに探しました。

紆余曲折、暗礁に乗り上げたこともありましたが…。ようやく探し当てることができました。    

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安曇野市豊科田沢で現在も瓦業を営む増沢瓦店が制作したものでした。ここは以前、増澤製造の名で瓦を製造していて、焼成する達磨窯もあったということです。創業開始は、明治元年と伝えられています。

「二塲城山下」の後ろ三文字は、安曇野の桜の名所である光城山のすぐ近くにこの瓦店が所在することから、「城山下」の意味することが分かりました。

では「二塲」は?  これが分かりません。   

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増沢瓦店の話では、すぐ近くに瓦に適した粘土の産出地があり、最盛時は七軒の瓦業者が軒を並べたといいます。しかし、やがて良質の粘土が採取できなくなったこと、それと時を同じくして瓦の伝統的産地の三州瓦に押されてきたこと、住宅事情が変わり需要が廃れてきたことなどが重なり、次々と廃業していったということです。

増沢瓦店では、先代まで瓦専門店として営業していて、製作技術を学ぶため三州から鬼師を呼び寄せたと言います。同店には最盛時、五人の鬼師がいて仕事に励んだそうです。

「安曇野の冬は凍みて瓦の仕事ができないので、冬になると職人たちは三州に出稼ぎに出た」(先代の奥さんの話)ともいいます。

そして、先代が故人となっていることから制作者は確認できなかったのですが、「三州からきた鬼師か、鬼瓦制作の技術を体得した腕のいい職人だったNさんが作ったかもしれない」(同)ということです。

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上の写真は、装飾瓦があったところから見た周りの風景です。火の見櫓上の風向計がやや傾いているような…。それはともかくとして。

「何者?か」について瓦鍾馗研究家の服部正美さん(京都市在住)は「よく見ると『雲』に乗っているようなので、ひょっとすると鍾馗ではなくて道教の人物かもしれませんが手の部分がよく見えないので、何ともわかりません。とにかく、不思議なものを発見されましたね。信濃の鍾馗さんは面白い!」とのコメントをいただきました。

そういえば、鍾馗さんも道教系の人物ですので、その方面の人物を描いているのかもしれません。








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メディカルハーブ-18  レモンバーム

レモンバームは地中海沿岸が原産地になり、シソ科の多年草でミントの一種です。見た目はシソに似ていますが、レモンの香りがして、料理にもよく使われます。

レモンの香りがするといっても、味には酸味がありません。むしろ、ほんのりとした甘みが楽しめます。          

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不安感を取り除き気持ちを明るくしてくれるほか、鎮静作用があることから不眠症にも用います。

特筆すべきこととして、ヘルペスウイルスの増殖を阻害する力があり口唇ヘルペス、性器ヘルペス治療にも使用されます。この場合は、70:1に濃縮したレモンバームを1%含むクリームを作り、1日4回患部に厚く塗ります。

消化管平滑筋を弛緩させる作用、腸内ガスが溜まるのを防ぐ駆風性や強壮効果もあり、胃などの内臓に働きかけて体を丈夫にします。めまいを抑える効果も確認されています。

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最近の研究では、アルツハイマー性認知症、甲状腺機能亢進症にも有効性があることが報告されています。

解熱、解毒効果にも優れていますので、風邪の引きはじめなどにはお薦めです。

レモンバームを大量に摂取すると眼圧を上昇させることがあるので緑内障の方や、ホルモンバランスの変調をきたすことがあるので妊娠中の人は、注意が必要です。

◆ 和名     セイヨウヤマハッカ

◆ 学名     Melissa officinalis

◆ 主要成分  テルペン、粘液質(アラビノガラクタン、タンニン、フェノール酸(カフェ酸、クロロゲン酸)、精油(ファルネソールなど)

◆ 作用     発汗作用、解熱作用、解毒作用、健胃作用、消化促進作用、強壮作用、鎮静作用、ヘルペスの増悪の防止、抗不安作用、駆風作用

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諏訪明神さま~三郷・南小倉

南からの風が夜になってもやまず、雨と一緒に強く吹きつけていた日でした。佐平のおかみさんのさきは、風邪をひいて具合が悪いので、夕飯をすますと奥へ行って早々に寝床に入りました。

風が吹くたびに雨戸がガタガタ鳴り、すきま風がさきの顔のあたりをなでるように吹きぬけていきます。「えらい風だわや。うるさくて眠れりゃしねえ」といって寝返りをした時、ヒューとひときわ強い風が吹き込み、障子がゴトゴトと音をたてました。「おやっ、雨戸が倒れちまったずらか」と思い、起ち上がろうとしました。

     012(強風が吹くたびに、雨戸や玄関口がガタゴト音を立てていた夜に…=穂高・新屋の曽根原家住宅)

すると、障子がスウーッと開きました。そして、暗い部屋の中に真っ白い着物姿が浮かび上がったかと思うと、後ろ手で障子を閉めると、その白い影が音もなく近づいてきました。さきは「だれだい?それになんだい、そのかっこうは」と、怖いのをこらえながら声をだしました。

「これっ、お内儀や、静かになされい。わしは諏訪明神じゃ。そなたがあまりにも美しいので、そっと忍んできたのじゃ」「なんだってい、明神さまだって。そんなばかなことが、あるもんかい、神さまがこんなとこへ来るはずがあるかい」と、さきがいうと、起きていた佐平の声がしました。

「おい、さきや、誰かそこにいるだかや。話し声がするだが…」「明神さまだって言う人がここに入って来てるだ」と、大きな声で答えました。「なにっ、明神さまだって…」と、佐平は障子を開けました。

     Photo           (白装束の明神さまは、舞台の先の階段を上って拝殿に逃げ込んだのでしょうか)

白装束(しろしょうぞく)は、さっと飛びのくと障子と雨戸をあけると、風が吹きつける闇の中へあわてて逃げていきました。暗闇の中にひらひらと白い着物をなびかせて走っていく後を、「待てえー」といいながら、佐平は追いかけました。

ぶどう畑の中に駆けこんだ白い着物の男は、突然、「うわあー」と大きな声をたてて、その場にうずくまりました。しかし、佐平が近くまで追いかけてきたことを知ると、また走りだしました。

佐平が見失うまいと、なおも後を追うと南小倉の神社の中に入って行きました。「こりゃ、ほんまに明神さまがさきのところへ来たちゅうことかいな」と思って拝殿に入って行きました。そうすると神棚から「佐平や、わしはブドウの枝で左の目を突いてしまった。ブドウは怖いのう」と、声が聞こえました。

          Photo_7               (諏訪神社拝殿の内部。明神さまの声はどの辺りから聞こえたのでしょうか)

「やっぱり明神さまだったのかい。こりゃ、おどけたもんだ」「そうじゃ、わしがよこしまな心を起こしたばっかりに、罰が当たってしまったわい。許してく れ」といいますので、佐平は「神さまでも罰が当たるとは知らなんだわい。まあ、でえじにしておくれや」といって家に帰りました。

佐平は家に戻ってから、さきにこの話をしました。「明神さまが、おらのところへねえ、おどけたもんだいね。それにしても、ブドウの枝で目を突くとは神さまも困るずらいね」「そうさ、片目の神さまになっちまったいなあ」。二人はそう話していました。

     Photo_2(小倉地区は、長野県でも有数のリンゴ生産量を誇ります。また「安曇野りんご」は全国ブランドになっています)

それからどうしたわけか、その年、ブドウを作っていた畑は、実が熟する前に全部落ちてしまい、収穫がありませんでした。村の人たちが集まるとブドウがだめだった話をしていました。

佐平は、明神さまがおしのびでさきのところへ来て、罰があたったなどということはいえませんでした。そのかわり「おらが明神さまにお参りに行ったら『ブドウ畑で目を突いて、えらい目にあった』と言ってたで、きっとそのたたりかもしれねえ」といいました。

そんなことがあってから、村の人たちはブドウを作るのをやめて、リンゴを作るようになったということです。

 

     * 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参考にしました。

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ヤマボウシがたわわに実っています

ハーブスクエアのオープンテラス前のヤマボウシが、たわわに実をつけ色づいて来ています。今年は例年にも増して、たくさんの実を付けています     

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このヤマボウシの樹がハーブスクエアに来てから、16年。来た当時は、まだ1㍍に満たない苗木でした。年々大きく育ち、今は樹高も4㍍を有に超えるほどになっています。

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今年はいつになく花数も多く、樹木全体が白く被われました。6月上~中旬は、こんな具合でした。

言ってみれば、実がたわわにになる前兆でした。

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すでに熟した実は下に落ち、毎朝掃き落とすほどです。赤く熟すと、やさしい甘みがのった果実となります。
ハーブスクエアの初秋の風景で、食べられると知って実に舌つづみを打って楽しむ方たちもいます。

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豊科新田の「立派なお屋敷」にあった鍾馗さん

瓦鍾馗や蔵の壁に描かれた鏝絵(こてえ)に魅せられて最近は休日のたびごとに、県内外のあちこちに足を運ぶようなりました。

鬼師(鬼板師とも=鬼瓦を作る瓦職人)や左官職人が作りだしたすばらしい造形美に出合うたびに感動しながらシャッターを切ったり、満悦感いっぱいで帰路につくこともたびたび味わうようになりました。

しかし、日がら一日探索し回っても空振りに終わることもしばしば。8月のはじめ、山梨県から「鍾馗ガール」ことnaoさんという女性が、瓦鍾馗探訪に訪れたことは以前書きました。安曇野市内の瓦鍾馗をいくつかをご案内して昼過ぎに別れたのですが、その後のnaoさんの単独行がすごい!

初めて訪れた地なのに、数体の鍾馗を探しだしました。わたしもこれまでの経験から分かるのですが、土地勘がないとなかなかあぶり出すのに骨が折れます。それを僅か2時間余りで4体も見つけだすなんて! この日、雨が激しくなったのでこれ以上の探索は断念したようですが…。

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後日、naoさんから新発見の位置情報をもらって、わたしも行ってきました。「立派なお屋敷ですよ」と聞いていましたので探し当てることができました。街の中心地にある確かに立派な蔵です。折れ釘も数多く、蔵への通用口もあります。

そこの蔵の上の南側に…

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「 少しの時間で一人で見つけだすなんて、特別の“鼻”が利くのかな?」とうらやましく思いながら、シャッターを押しました。

naoさんは抜かりなく、蔵の反対側の軒もチェックしていました。安曇野では大棟の両側に鍾馗さんを飾るのは、そう多くはないので、うっかりすると見落としてしまうことがあります。これもさすがです。

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そんなことがあってから最近は、鍾馗さんを探しだすいくつかのポイントが少しずつ分かってきました。それを念頭に探索すると、これまで見逃していた鍾馗さんに出合うことができるようになりました。

休日がいよいよ忙しくなってきました。

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赤ちゃんのデリケートな肌にオーガニック ヘアケア、スキンケア用品を

大人の肌のような抵抗力を持たず、乾燥や刺激成分にも敏感な赤ちゃんの肌。そんな赤ちゃんのために、安全性にこだわり、厳選したオーガニック成分で作られたシリーズをご案内します。

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まず、頭から足まで全身洗える、赤ちゃんのオーガニック全身用シャンプー「オーガニック ベビー シャンプー」(写真中央)です。カモミール、ラベンダー、カレンデュラなどを保湿成分として配合し、肌への刺激の少ないココナツ由来の洗浄成分を厳選しています。(オーガニック成分比73.4%)

デリケートな赤ちゃんの肌を潤し、やさしく包み込むオーガニック保湿クリーム「オーガニック ベビー クリーム」(写真右)です。マカデミアナッツオイル、カモミール、カレンデュラなどが保湿成分として多く配合し、肌をなめらかにし潤いを与えます。(オーガニック成分比79.4%)

赤ちゃんのお尻用オーガニッククリーム「オーガニック ナッピー ローション」(写真左)です。マカデミアナッツオイル、カモミール、カレンデュラなどを配合した、のびの良いクリームが肌をみずみずしくさらさらに保ちます。(オーガニック成分比70.3%)

 オーガニック ベビー シャンプー  250ml    2,310円(税込み)
 オーガニック ベビー クリーム    125ml    2,415円(税込み)
  オーガニック ナッピー ローション   125ml    2,310円(税込み)

* 〔 オーガニック ベビー シリーズ  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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安曇野に架かる橋(13)~壮観な8連アーチの田沢橋

安曇野市豊科の犀川に架かる田沢橋です。田沢と豊科中心部を結んでいます。犀川は、この橋の少し上流部で奈良井川、梓川と合流し水量を増して、新たな流れとなって下ってきています。

田沢橋は正確に言うと、2本架かっています。上流側にあるのが昭和55(1980)年に開通した新橋で、車専用の橋として、下流側に歩行者と自転車が通れる橋として使い分けています。

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この歩行者専用橋は、コンクリート製のアーチ橋になっています。アーチ(ローゼ桁)は8連あり、壮観です。

旧橋は、昭和30(1955)年に竣工していますので、半世紀を超え今でも現役で活躍しているわけです。全長361㍍あり、この地域の生活遺産としての価値がしのばれます。

新橋になってから乗合バスも走るようになり、JR大糸線の豊科駅と篠ノ井線田沢駅間が結ばれ東西の交通の利便性が増しました。通学、通勤での便に利用されています。

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下の写真は、8連アーチ橋ができた翌年の昭和31(1956)年当時、水量豊富な犀川で投網漁をする模様を田沢橋のふもとで記録撮影しているのものです。

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もっとも橋のなかったころは、舟が両岸を行き来していました。渡し舟です。田沢橋の上流域の熊倉地区に川幅が上下流と比べて狭いところがあり、そこに渡し場があり、「熊倉の渡し」と呼ばれていました。

熊倉の春日神社の裏手に渡し舟が保存されています。

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江戸時代、松本藩の高年貢に苦しんでいた農民の惨状を見て、庄屋の多田加助が命を賭けて直訴に上りますが、家族に見送られて犀川を渡ったのが、この渡し場でした。

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いま、「熊倉の渡し」を示す記念碑が残っています。

* 白黒写真は「懐かし写真館 昭和の街角 大町 安曇野 北安曇」(郷土出版社)から撮りました。

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その後、目にした安曇野の屋根瓦-7  生きものたち

明科中条にある医院の塀に3種の動物の飾り瓦があります。

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まず鶴です。

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鶴といえば、次に来るのは亀ですね。

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いかにものっそりのっそりと歩いている感じがでていますよね。

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そして鳩がいました。

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いずれもこれまで見てきたものとは違っていて、量産されたものではなさそうです。

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四賀会田宿(現松本市)にも鳩が対でいました。

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豊科吉野には、鶴と亀が一体となった瓦がありました。

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アンテナの支柱とコードに遮られていますが、紅葉の古木と子鹿が描かれた鬼瓦です。池田町渋田見で見ました。

子鹿は葉を食べているようです。魔除けや縁起物の装飾瓦は数多いのですが、このようなのどかで風流な絵柄は珍しいかもしれません。


* 鶴と亀鶴と松については、これまでにも記載しています。ご覧ください。   

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安曇野に架かる橋(12)~安曇野の入り口にあたる梓橋

国道147号は、大町市を起点に安曇野市を通り松本市にいたる一般国道で、千国街道、糸魚川街道、あるいは松本街道とも呼ばれてきた「塩の道」です。

安曇野市と松本市を結ぶ国道147号線上に架かっている橋が梓橋です。松本市側から来た場合いわば安曇野の“入り口"となる橋で、約270mあります。昭和61(1986)年に、9㍍に橋幅が拡幅されて現在の姿になっています。

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橋下を流れる川は梓川で、北アルプスの秀峰・槍ヶ岳を源流とし上高地を経て、安曇野の西側を流れて来ています。橋の周辺にツメレンゲが自生していて、これを食草とするクロツバメシジミの飛翔する姿が見られます。

この梓川に初めて橋が架けられたのは、120年ほど前の明治23(1890)年で、新道の開設とともに架橋されています。しかし、木橋のため洪水によってたびたび流失したそうです。

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一度橋がなくなると、次の橋ができるまで生活上の不便はいうまでもありません。

再興するのに多大な費用が掛かりましたが、昭和6(1931)年になってコンクリート橋に架け替えられました。39年の拡幅架け替えまで使用されました。

下の写真は、架け替え前の昭和32年当時の梓橋です。

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梓橋の西側には、JR大糸線の鉄橋が見えます。大糸線は、安曇野を通って松本と新潟・糸魚川を結んでいます。

この橋の西側に梓橋駅があり、ホームに「是より北  安曇野」と記した標識が建っています。

*  白黒写真は、「松本・塩尻の昭和史」(郷土出版社)から撮りました。

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天の鈴石~明科・小泉

小泉の東に犀川という大きな川が流れています。豊な川の水は、日本海へ向かって流れ、 幾筋もの川が流れ込み、やがて千曲川と名前を変え、新潟県に入ってから信濃川と呼ばれ  日本海に注ぎます。   

おせきの家は、この犀川のそばで、おとっさまとおっかあさまと二つ違いの妹のおよしと暮らし ていました。おせきが十歳になったときのことです。田植えが済んでホッとしたのも束の間、そ の後、一滴の雨も降りません。

梅雨の時期の六月だというのに、むんむんとした暑さだけが続き、やがて田んぼに引く小川の水も、沢の水も枯れ、豊かに水をたたえていた犀川までも水かさが減ってしまいました。川原がむきだしになり、わずかに川底に一筋の水が流れているといったありさまになってしまったのです。

     018 (今はこの南陸郷・小泉地域も灌漑用水が流れ、水に困ることはなくなりました) 

田んぼはカラカラに渇き、大きく深くひび割れ、やっと少し伸びた稲の葉も茶色に変わってきました。畑の大根や豆の葉もげんなりしおれてきました。「おらの子どものころのこんだが、日照りになって、子どもや年寄りが何人も飢え死にしたってが、あんなことにならねばいいが…」と、おとっさまが声を落として、おっかさまに話しているのをこっそり聞いてから、おせきは気が気ではなくなりました。   

おせきは、おとっさまも村の人たちと一緒に八幡さまに毎朝毎晩、「雨が降りますように。雨が が降りますように。おたの申します。おたの申します。……」と、お祈りする姿も見ていました。天の神さまも地の神さまも、みんなの願いを聞き届けてくれそうにありませんでしたが、みんな一心に祈り続けていました。

           017(雨乞いは、明和、寛政、文化、文政、天保、年間(1700~1800年代)に盛んに行われていたことが、穂高神社に残されている史料からうかがえます)

田んぼからカエルの鳴き声が聞こえなくなり、家々からも笑い声が消えました。遊びまわる子  どもたちの姿も見えません。大人も子どももうらめしそうに、雲ひとつない真っ青な空を眺めては、ため息ばかりついていました。   

それから数日した朝、おせきは村の人たちと一緒に「雨を降らせてください。どうか飢饉になり ませんように…」とお祈りしていました。すると何の前触れもなく、「ゴロゴロゴロン、ゴロン、ゴゴロン」と大きな音とともに山の上からたくさんの石が、みんなの前に転がり落ちてきました。「うわあーっ!」と、みんな一斉に飛びのきました。   

転げ落ちてきた大きな石の一つが、おせきの前で止まりました。およしが「ねえちゃん、見て  て見て、この石、鈴のかっこしてる」といいました。「ほんとだ。石の鈴だ」とおせきは、つるつるした石をなでました。その時です。ピカーッ!と稲妻が光ったかと思うと「コ゜ロゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロビシャン!」と、村中を揺さぶるような雷鳴がとどろきました。おせきもおよしも、とっさに頭をかかえて地面にうずくまりました。

          Photo(おせき姉妹の前に転げ落ちて来た鈴石。いま、和泉神社の片隅に安置され、年月とともに苔むしています)

雲と雲の間から雷が鳴り響き、やがて雨が滝のように落ちてきました。「雨だ、雨が降ってき  た」「ありがてえ、ありがてえ」と村人たちはびっしょり濡れながら空を見上げていました。

突然 おせきが、およしの手を引いて駆け出しました。「ねえちゃん、どこへ行くだ?」。およしが聞いても返事がありません。走って行った先は、家の田んぼでした。雨は激しく降り続き、おっかさまの手のように痛々しくひび割れていた田んぼが、雨水をどくどく吸い込んでいました。   

田んぼの水を見届けたおせきは、およしの手をつかんで家へと走り、「田んぼが、がっぽがっぽ水飲んでいる」と、病気で寝ているおっかさまに話しました。「よかった、よかったなあ。助かったな」と、おっかさまは二人を抱きしめました。「うん。天からまあるい石が落ちてきただよ。こんねに大きな鈴のかっこした石だったよ。そしたら雷さまが鳴って、雨がたくさん降り出しただ……。あの石のおかげだよ。あれは神さまの石だ」

           015                (村の氏神さまを祀っている和泉神社。ここに鈴石が保存されています)

それから何日も、雨は静かに降り続きました。田んぼの稲も畑の作物も、馬も牛も生き返りま ました。「あの石のおかげだぞ。あの石を大事にせにゃあ、罰があたる」と村の人たちの中に、そんな声が強まり、鈴に似た丸い石は八幡さまの社に大切に祀ることになりました。

その後も日照りになると、藤で編んだもっこに入れて村中を転がしてまわりました。すると、必ず雨が降ったということです。その上、火事も起こらなくなったので、この不思議な石を「天の鈴石」として雨乞いや火除けの神としてあがめました。八幡さまは、明治になってから小泉の和泉神社に移され、鈴石は今、ここの境内に残っています。   

 
 

          * 『 あづみ野 明科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。   

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新しいブレンドハーブティー3種ができました

ハーブスクエアでは、ご好評いただいているオリジナル・ブレンドハーブティーの健康シリーズに、新たに3種の商品を加えこのほど販売開始しました。          

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新商品は「自己免疫力の強化」、「女性ホルモンの分泌調整」、「自律神経系のバランス調整」の3種類です。

働きとしては、それぞれ商品名の示す通りで、効果が確認されているハーブを5~6種類配合し、相乗作用が期待されるようブレンドしています。

いずれも90g入りで、1日3回飲用してひと月分の用量です。いれ方、飲み方はこちらを参照ください。

     

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人が本来持っている自己調整機能に働きかける多彩なパワーをもったハーブを、あなたの、そしてご家族の健康の回復と増進に役立ててみませんか。

〔ハーブスクエア オリジナルブレンドハーブティー〕

      自己免疫力の強化        90g入り    1,980円(税込み)

      女性ホルモンの分泌調整     90g入り    1,980円(税込み)

      自律神経系のバランス調整   90g入り    1,980円(税込み)

* 〔ハーブスクエア オリジナルブレンドハーブティー〕の新商品3点は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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その後、目にした安曇野の屋根瓦-6   滝を登った鯉

飾り瓦の探索で三郷周辺を回っていたところ、路地裏で赤レンガ建ての蔵に出合いました。

この一帯の蔵といえば白漆喰となまこ壁、あるいは荒壁土を塗った素朴な味のする農家蔵と思い込んでいたので、赤レンガ蔵は新鮮に映りました。

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蔵の先に本棟があり、かなり広いお屋敷になっています。ちょうど植木職人さんが、刈り込み作業をしていましたので、許可をいただき屋根瓦を見せていただくことにしました。

母屋に面して和式の庭園があり、庭木の手入れは立派な通用門を通って出入りします。その通用門の上に急流を登る鯉が四匹…。

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あの黄河のいくつもの滝を登った鯉です。こちらのお宅は現在、宅老施設として使用されていて、持ち主の方は東京在住とか。

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なにか事業を起こし成功した証として、登龍門を登る鯉を飾ったのでしょうか。

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登龍門を登り切った鯉は龍になり、天に昇ったといわれます。

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それを示すように、通用門の上には龍が対で飾られていました。

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この故事来歴については、こちらでも触れています。  

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豊科飯田のこれも立派に構えた門の上にも…

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逆巻く流れのなか、必死に目的地を目指す一匹の鯉がいました。

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豊科田沢の現在も瓦店を営む宅に、鬼瓦の屋号横に鯉がいました。

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もう一軒、すぐ近くでかつて瓦業を営んでいた宅にも、天に向かう鯉が対で飾られています。大願成就の意を込めたのでしょう。

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龍といえば、リアルに描かれた鬼瓦の龍が旧四賀村(現松本市)中川にありました。

西日本ではさほど珍しいものではないようですが、信州では鬼瓦といえば鬼面が圧倒的に多く、龍の鬼瓦は少ないように思われます。これまでに目にしたのは、この一体だけです。 
想像上の生物とは言え、写実的に描かれていて右手の方に胴体も伸ばしています。 


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安曇野に架かる橋(11)~穂高神社内の神橋

穂高の中心市街地に位置する穂高神社の中にも、橋があります。

拝殿の裏手に池があり、流れ込む小川に加え湧水が池の水量を増やしています。その池から新しい小川が境内を流れます。

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境内を流れる小川は御手洗川と名があり、この川に「神橋」という石橋が架かっています。

橋といっても長さ2.3m、幅5m、高さが1mですので、うっかりすると気づかずに渡ってしまいます。

往時の千国街道で、参詣者はこの神橋を渡ってお参りしたことでしょう。

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石橋としては、市内で最も古い明治16(1883)年造立になります。ですから、すでこの頃には湧水からの水が流れ出ていたことになります。

橋の両袖に寄進した人たちの名前が刻まれています。

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この石橋の欄干の両側に、龍の透かし彫りがあります。雲龍の意匠は、それぞれ違った図柄になっていて、市の有形文化財に指定され保存されています。

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千国街道は、「塩の道」とも呼ばれ糸魚川(新潟県)と塩尻(長野県)を結んだ生活道で、日本海側から塩や海産物が、信州から麻や煙草、農産物が行き来した山国・信州にとってはかけがえのない道でした。

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この神橋のすぐ近くに「ものぐさ太郎」の石碑や日光小太郎の青銅像がありますし、飲用できる「安曇の銘水」、拝殿前にはパワースポットのご神木・孝養杉などもあります。

* 塩の道とは……戦国時代、山国の甲斐、信濃一帯を治めていた武田信玄が、駿河の今川義元と対立したことから生活必要物資の塩を止められ難渋していまし た。そうした時期、信玄と北側で相対峙していた越後の上杉謙信が、「争うべきは弓箭(ゆみや)にあり、米・塩にあらず」として敵に塩を送ったという故事があり、越後の糸魚川から松本、塩尻まで牛馬が塩を運んだ道のことをいいます。


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その後、目にした安曇野の屋根瓦-5   大黒天

かつては善光寺に参る善男善女が通った善光寺西街道の宿場があった筑北・乱橋。この春、瓦鍾馗探訪の旅を続けているkiteさん(愛知県在住)、おとんさん(大阪府在住)と一緒に訪れました。

宿の辻に木造モルタル塗りの一軒の大きな家があり、ここの屋根に大黒さまが飾られています。

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大棟の一方にある大黒さま。

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打ち出の小槌、二俵の米俵に乗っている型どおりの大黒天。顔をよく見ると眉が下がり気味、全体として貧相な表情(失礼)に見えるのですが…。

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小屋根にあるこちらの大黒さんは、松竹梅に囲まれにこやかな笑顔をしています。

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でも大黒さんは今風にいえば、メタボな体躯で重量感のある風貌が通り相場。こちらはスリムに過ぎませんか。食糧事情がよくなかった頃にでも制作されたのでしょうか?     

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松竹梅に囲まれて手にしている「大」の文字の入ったものは、大福帳でしょうか。うりざね顔気味でヘアースタイルからいっても女性のようです。だとすると、お多福さん(?)でしょうか。

 

大棟の反対側に乗っている苔むした飾り瓦です。にこやかな顔の表情は分かるのですが、他の部分の傷みが激しいのに加え、隣家との関係でこれ以上の撮影ができません。結局、何をかたどったのかは判別できませんでした。

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全体として荒作りの手づくり瓦で、かなりの年月を刻んで屋根に飾られてきたことが分かります。母屋もあちこちに傷みが見受けられますが、なんとか生き延びてほしいと願わずにおれません。    

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同じ筑北村のずっと離れた場所で見つけた現代版大黒さま。これも塀の上に飾られていました。

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同じ集落で、また別の大黒さまに出合いました。上の写真、右の屋根上に見えているのが分かりますか?

近づいて見ると、大笑いしているではありませんか。よほどいいことがあったのでしょうか?。蓄財が溜まり込んだとか…。     

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対で飾られているのですが、反り返って大笑いしているのが分かるかと思います。

そんなに笑って屋根から落ちませんように…。

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下は四賀保福寺で見た大黒さま。柿の木の僅かな隙間から顔をのぞかせていました。

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大黒さまには欠かせない打ち出の小槌。三郷温(ゆたか)で、打ち出の小槌が単独で飾られている鬼瓦に出合いました。

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おとんさんが評してくれまた。                                       「打ち出の小槌が入った鬼瓦はときどき見かけますが、ぐるぐる渦巻き模様の入ったのは初めてです。宝物が当家に入ってきても、波紋のように近所にも広がりますように……はたまた逆に、宝物は渦巻きの中に入って、当家だけに来るように……」。

この宅の家人は、どのような意を込めて飾ったのでしょうか。

 

*  kiteさんが他県で見た大黒さまを含む七福神瓦について、こちらで紹介しています。

また、kiteさんが顔の表情について詳述したブログがあります。こちらです。

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(24)~水草

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


満蒙開拓団の一員として夢抱いて渡満した川原が帰還、心身ともに大きく傷ついていました。川原の身を案じた夫の和成に促されて、川原の消息を追う陽子は安曇野に来ました。    

探しあぐねて水草が浮かぶ川べりに来たところ、「月の沙漠」を奏でるハーモニカの音色が…。

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川原功一でした。

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戦死した長兄・春樹の学友であった川原が遊びに訪れた10数年前、陽子の前で奏でてくれたのと同じ音色でした。陽子が初恋を意識したきっかけでしたね。

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満州国は、日本が侵出した大陸での権益を守るため、清朝最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を執政に据えたいわば傀儡(かいらい)国家だったということが歴史上の定説になっています。

川原は昭和14(1939)年の正月、所帯を持つことを約した女性・タエとともに「王道楽土」を求め、それを「自分の目で確かめたい」と大きな夢を描いて渡満しました。

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満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされます。終戦間際になってのソ連の参戦で満州にいた日本人開拓団は大混乱に陥り、ほとんどが国境地帯に取り残され日本に帰国できたのは11万人あまりだったといわれます。

「(満州は)なにが新天地だ、なにが日本の未来だ。俺が(タエを)地獄へ連れて行ったようなものだ」と自責の念に苛まれていました。

川原は詳しくは語りませんでしたが、タエをなくし傷心のまま、そして命からがらの帰国だったようです。

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甲府の実家も空襲に遭い、家族をみな失ったとも。「なにが新しい社会だ、この国の連中は(辛かったこと、悲しかったことを)忘れすぎだ!」と強く憤りました。

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この陽子と川原の再会の場面は、水中の水草がはっきりと見える明科中川手の犀川遊水池にある親水公園「水辺の楽校」周辺で撮られています。

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冬になると、シベリアからの白鳥が飛来する池がある場所と道を一本挟んだ地点になります。

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冬鳥たちの撮影に訪れるカメラマンたちや見物者でにぎわう遊水池も、オフシーズンの今は閑散としています。   

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自然体験交流センター「せせらぎ」の施設があり、周辺には湧水が流れ、さわやかなひと時を過ごせる場所です。

毎夏、この親水公園を会場に河川愛護団体や釣り愛好家団体などが、親子を対象としたカヌー教室や川釣り大会などを開き、自然の中で遊ぶことを通して水辺の環境に関心を持ってもらう取り組みを行っています。

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水も清らかで、年間通して水草が生息しているのが水面から見ることができます。

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陽子と和成は、久しぶりに二人だけの時間が持てました。このシーンもこの川縁で収録されました。

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すでに「おひさま」の収録はクランクアップ(8月23日)していて、放映も10月1日までの予定になっています。

このあとドラマはどんな展開になっていくのでしょうか、楽しみは尽きないですね。

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肌のトラブルにも安心して使えるボディソープ

オーガニックのオリーブオイル、ココナッツオイル、アマニオイルをベースに、保湿成分の植物性グリセリンを加えた100%植物成分で作られたオーガニック・ボディソープをご紹介します。

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オーガニックとは、化学合成農薬や化学肥料に頼らず、有機肥料などで土壌の持つ力を活かして栽培する有機栽培農法のことです。

オーガニック認定は、世界でも最も厳しいといわれるオーストラリアの認定機関ACOの認定を取得しています。ここの認定基準は水と塩以外の配合成分のうち、95%以上がオーガニック原料、残りの5%も天然成分を使用していることがクリアの条件になっています。

このボディソープは「オーガニック カスチールソープ」といい、洗浄力が高く優れた保湿力で洗いあがり後もきしみがありません。オーガニック認定成分比は96%です。

厳選した植物性原料を使用していますので、敏感肌、乾燥肌の方にもお薦めです。

オーガニック カスチール ボディソープ   250ml    1,575円(税込み)

* 〔 オーガニック カスチール ボディソープ  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。 

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9月13、14日を連休いたします

9月13日(火)を休業し、13、14日を
連休とさせていただきます。

ご了承のほど、よろしくお願い申し上げます。

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安曇野近郊の里山に秋の気配が…

「暑い、暑い」が、つい先だってまで口癖のように交わされていました。しかし、月が変わって近郊の野山に足を運ぶと、すでに秋の気配がしのび寄っています。

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ぶらり出かけた先は、松本郊外の旧四賀村の里山です。標高は650㍍前後でしょうか。吹く風も涼やかです。

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ススキは少しの風にも、勢いよく穂を左右に振っていました。

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秋の野山を彩るオミナエシも元気よく花開いています。

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荒れ地の草の中からヒガンバナが顔をのぞかせています。


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以前はよく目にしたガマの穂、最近はめったにお目にかかれません。

里山の田んぼの稲も、少しずつ穂が垂れ下がってきています。

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稲穂が実りだすとスズメたちがついばみに…。農家では昔から野鳥脅しに案山子(かかし)を立ててきましたが、最近はマネキン人形を案山子替わりにする風景も珍しくなくなりました。

でも眺める側にとっては、こうした昔ながらの手作り案山子に親しみを感じたりします。

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こちらはムンクの「叫び」の中から出てきた案山子?

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「おひかえなすって」と仁義を切りそうなこちらの案山子、スズメを追い払ってくれるといいのですが…。

近くで農家の方が畔道の草を刈っていました。

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神翁さま~穂高・嵩下

むかし、嵩下(たけのす)に一人のじいさまが住んでいました。じいさんは、たいそうな働きもので、朝早く起きて山に柴刈りに行き、たくさんの柴を背負って下りてきます。

それを村の人たちに売って暮らしていました。じいさまの作った柴は、太い枝がたくさん入ったとてもよい柴で、ふつうの人よりは高い値で売れました。

          004         (神翁さまはいま、嵩下住民の氏神・館宮神社の一角に祀られています)      

ある時、山へ出かけたじいさまに村の若ものたちが「やあ、じっさま。どうだい、おらたちとちょっくら柴のしょい比べするじゃねえかい」と誘いました。「それじゃ、やってみるとするか」と承知してしょい比べをすることになりました。                                    

そこで、みんなは柴の束を作り始めましたが、じいさまは他の誰よりも早くたくさん作り、しかも作った柴の束の大きさは、全部同じなのでみんなは感心しました。若ものたちは、今度はじいさまより一束でも多くしょってやろうと思いました。

ところが、若ものたちが四、五束の柴しかしょってないのに、じいさまは十束もの柴をしょって「できたかね」と声をかけ、さっさと歩き始めました。若ものたちは、じいさまの仕事の速いのにすっかり驚いてしまいました。

                  145            (柴を背負う時に使用した背負いこ=穂高郷土博物館蔵)

ある日、じいさまが柴を売りに歩いていると、前からしょんぼり歩いてくる人に出会いました。「どうかしたかね?」とたずねると「おらの親類が、流行り病にかかり面倒見ていたおっかさまにも、うつって寝込んじまってせ。それで、おらが行ってやろうと思うだが、おらもうつりゃおっかねえで弱っているだ」と話しました。

そこで「わしが変わりにいってやるだ」と言って、病人の家に行き、体をきれいに拭いてやり、一心に祈り、おかゆを食べさせてはまた祈り、夜も寝ないで看病してやりました。

まもなく病人は起きられるようになりました。「おかげさまで助かりました」と、じいさまに手を合わせお礼をいいました。                                    

またある時は、隣どおしで土地の境をめぐって大争いをしている人たちがいて、仲介を頼まれてじいさまは、両方の土地の真ん中を仕切って境を作り、二度と土地争いが起こらないようにしてやりました。

また別のところでは、他人の鐘をだまし取ったり、他人の家に入りこんで金や物を盗んできてしまう人がいました。じいさまは、その人のところへ行き話しをして、お金を与えて償いをするようにさせました。                                    

そればかりでなく、幼い子をかかえて働きにもいけずに困っている人や、病気で長く寝ていて生活に困っている人には、一生懸命、柴を売って貯めたお金をくれてやりました。

     3_2                       (館神社の本殿)         

じいさまが働き者で、信心深く、わけへだてなく他人の面倒をみることから、村人たちは神さまのような人に思えて、誰いうともなく「神翁(しんのう)さま」と呼ぶようになりました。                                    

ある年の、とても寒い日のことでした。じいさまは朝早く、いつものように柴を刈りに山へ出かけていきましたが、どうしたことか、そのまま帰ってきませんでした。

それから少したったころ、村の人たちは神翁さまの姿が見えないのに気づきました。「どこへ行ったずらいね」。村の人たちは、総出で手分けして山の中をあちこち見て周り、「し・ん・の・お・さ・まぁー」と口々に叫びながら必死に探しました。                                    

その結果、天満沢(てんまざわ)の「蛇の窪」という大きな石の上に、神翁さまが使っていた鎌と草履(ぞうり)がきちんと並べてあるのを見つけました。しかし、ついに神翁さまの姿を見つけ出すことはできませんでした。                                    

村の人たちは山を下り、神翁さまの家へ行きました。神棚に神さまが祀ってあり、その前にお神酒(みき)が供えられてあって、小机の上にある小さな箱にはたくさんのお金が入っていました。

「このお金で神翁さまのおとむらいをするじゃねかい」と言うと、別の人が「あの人のこんだで、ひょっこり帰ってくるかも知れねえじ」といい、結局、村の人たちは交代で神翁さまの家に泊まることにしました。

           Photo_4                    (境内に祀られている神翁さま)

ある夜のこと、泊まっていた平八さんの夢の中に神翁さまが出てきました。「みなさんが、わしのことをいつまでも思ってくれるのは大変ありがたいが、もう待たないで下さい。この村のことはこれからも、わしが守りますから」といったのです。

平八さんはみんなにこのことを話すと「神翁さまはやっぱり、神さまだっただね」「これからも神翁さまのこと、忘れちゃならねえ」と口々に神翁さまのことをしのびました。

  

       * 『 あづみ野 穂高の民話 』(安曇野児童文学会編)を参考にしました。

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