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安曇野に残る“戦時遺産”を探して

終戦66年後の記念日に、安曇野に今も残る戦争時の跡を訪ねてみました。

穂高有明に根元が朽ちはて、草むらに倒れている記念標と一本の桜の若木があります。記念標には、墨痕も鮮やかに「戰友櫻」と書かれています。

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太平洋戦争も昭和19(1944)年になると、アメリカは日本が侵出したマーシャル群島、サイパン、グァム、テニアンなどの諸島を奪還し、それらを発進基地として日本本土への爆撃を繰り返しました。日本は国土防衛に追われるほどに戦局の悪化に追い込まれます。

大本営は、軍の編成を組み直し、「納部隊」という師団を新たに作りました。“本土決戦をして納める”という大本営の期待がこめられ、「決部隊」とも呼ばれていました。

この決部隊の1個連隊が、穂高有明で同年7月から軍事訓練を始めました。本土決戦に備え、敵が関東地方の海岸に上陸することを想定した訓練だったと いいます。このため有明演習地のあちこちに「タコつぼ」と呼ぶ穴を掘り、兵士は爆雷を背に、その穴に隠れ敵戦車が近づくのを待って体当たりするという自爆のための匍匐(ほふく=腹這いになって前へ進む)訓練が中心でした。

いつ上陸するか分からない米軍を腹這いになって迎え撃つために、週2回は「飲まず、食わず、吸わず、眠らず」の24時間訓練と称することも繰り返されたといいます。

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一定の訓練が済むと部隊の一部は、米軍の上陸地点と想定された九十九里海岸に移動しましたが、日本の無条件降伏で戦うことなく現地で終戦を迎えました。

安曇野・堀金出身で作家、文芸評論家の臼井吉見も決第6665部隊に配属され、第2大隊第6中隊第二小隊長として昼夜を分かたぬ訓練を続けていました。その様子が大河小説『安曇野』~第五部その二五~にでてきます。

「戰友櫻」は、長野県人だけで召集された決第6665部隊第9中隊(池田隊)201名が、戦後57年を経て、当時の辛かった体験をともにした戦友たちが思い出の地に植樹した記念樹と標柱です。

標柱には「厳冬雪原の有明演習場で昼夜を問わず僅かな高粱飯と薄い味噌汁だけで」訓練に励んだと書かれています。高粱飯とはモロコシの一種で、雑穀のコーリャンを炊いたご飯のことです。         ………………………………………………………………………………………………

昭和19年、米軍の最新鋭爆撃機B-29によって安曇野市穂高の街中と有明の畑に10数発の爆撃を受けたことについて以前書きました。(詳しくは、こちらです)    

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有明に投下された爆弾は死傷者を出しましたが、すさまじい爆風は周辺に多くの被害をもたらしました。現在、その跡を残す建造物などはありませんが、二基の馬頭観音像が原形を辛うじて残しながら路傍に佇んでいます。

これも爆風によって砕かれたもので、昭和19年5月の“戦時遺産”として静かに語りかけてきます。          …………………………………………………………………………………………………

下のポスター写真は、当時の内務省が制作した戦時啓発を目的としたもので、昭和12(1937)年に制定された「防空法」に基くものです。この法律は日中開戦前に制定されていますが、 このころになると各国が航空戦力を増強していました。このため、戦時に空襲があることを想定して、これに備えるため「防空法」が制定されました。

          

防空法は、国民生活のすみずみまで細かく規制したり統制する内容を含みました。そのために「隣組」という国(大政翼賛会)が決めた方針内容を実践する最末端の組織を作りました。この「隣組」は、隣近所5~10戸程度で構成されました。

隣組は、空襲に備えた防空壕作りや近隣に焼夷弾が投下された場合の消火活動から、灯火管制、兵士の送迎、国債募集、金属回収など様々な任務を地域で担いました。

以前に書いた学童疎開も、この防空法による措置でした。疎開は人に限らず、建物にも及びました。昭和17(1942)年4月、米軍が最初の日本本土を爆撃すると空襲に対する危機感は一層高まりました。工場など建物の強制疎開が始まります。疎開させた建物は、火災を防ぐために収容した後は取り壊しました。

穂高有明にあるワシントン靴穂高工場跡も、昭和20(1945)年に東京にあった直営工場が疎開してできたものです。銀座ワシントン靴店の創業者が穂高出身であったことから、軍からの強制で故郷に工場疎開し、平成15(2003)年まで操業を続けていました。

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また、「白い建物や光った屋根を保護色に塗り替えること」なども決め、民間にも強いることになりました。穂高の市街地に残る蔵造りの白壁は、当時黒く塗りかえられたままの状態で現在も残っています。

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壁面はもちろん、扉の内側まで黒く塗られました。

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