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2011年8月

連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(23)~川の流れ

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


連続テレビ小説「おひさま」も、陽子が嫁いだ松本の丸山家(蕎麦屋・丸庵)になってから物語の舞台が安曇野から松本へ変わりました。

そして、終戦を迎え陽子を取り巻く状況は、夫・和成の帰還、妊娠、教師退職、出産、味噌醸造会社への再就職、退社と陽子の家業の手伝いと目まぐるしく移り変わりました。

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物語の舞台は松本を軸に動きましたが、陽子たちが実家を訪れるときは、安曇野を象徴する澄んだ川の流れが画面に映し出されていました。

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昭和25(1950)年の春、3歳になった日向子を連れて3世代家族揃って、陽子の実家のある安曇野へ小旅行。

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この場面、今年7月7、8日にソバの花咲く安曇野堀金でロケーションが行われました。

この時のロケーションの模様は、こちらで。

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かつて陽子が通いなれた水車小屋がある辻の前で道祖神に手を合わせ…

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持参したお弁当を和気あいあいと食べながら      

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みんなで将来の夢を語らい合いましたね。

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このロケ地の風景、すっかりおなじみになりました。ドラマの放映スタートが大震災の影響でずれ込みましたが放映まもなくして、ここを訪れる人が日に日に多くなりました。
五月の大型連休はもちろん、八月も多くの人たちが見物に来ました。

観光企画でもロケ地ツアーが組まれたりして、平日でも賑わっているようです。ロケセットは国営あづみの公園の敷地内にありますが、現在も同公園には平日でも2千人を超える来場者があるといいます。

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陽子たち家族は、お弁当を食べた後、小川の近くでひと休み。この場面は明科の御宝田遊水池の近くで収録されました。

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流れている小川は、犀川の支流になります。安曇野ロケでは、初めてお目見えした場所です。ここは後に陽子の初恋の人・川原と再会する場面にも登場します。

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家族はその後、万水川のほとりを歩き、たどり着いたのが…

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後に陽子が住むようになる絵本に出てきたような洋館でした。このセットは御宝田わさび農場の敷地内に組まれていることは、以前ご紹介しましたね。

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番組で放映されるロケ収録は、今回が最後とのこと。安曇野の美しい自然や清澄な川の流れなどがたっぷり録画され、いろいろな場面の背景にでてきます。。

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主演の陽子役を演ずる井上真央さんは「緑がきれいで、風が気持ちいい。季節を通して信州で撮影できていることを嬉しく思います」と、安曇野の印象を語っていました。

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そうそう。陽子の幼友だちのタケオが結婚することになりましたね。隠しごとの嫌いなタケオは結婚相手のミツに、ずうっと陽子に恋心を抱いていたことを打ち明けました。いきなり、ミツに平手打ちを食らいましたが。

その時の場面も、この日収録されたものです。

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メディカルハーブ-17   スティンギング・ネトル

ネトルは、 葉や茎にヒスタミンを含む鋭いトゲがあります。うっかり素手で触ると激しい痛みがしばらくの時間残ります。しかし、乾燥させるとこのトゲは自然な形で取れ落ちてしまいますので、こういった心配はありません。

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茎からは、織物の繊維が取れます。アンデルセン童話にもネトルから糸を紡ぐ場面がでてきますので、かつては広く利用されていたのでしょうか。

ネトルはビタミン、ミネラル類が豊富な上に、多くの薬効があります。ミネラル類は、鉄やカリウムなどを多く含み、貧血の改善に用いられてきました。

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カンジダ膣炎など婦人病の治療にも用いられるほか、月経時の出血量をコントロールする効果もあるといわれます。

またネトルは、古くからアレルギー症の治療にも使われてきました。花粉症の諸症状を緩和するほか、抗アレルギー成分を含有することからアレルギーの体質改善にも役立ちます。

このほか、尿酸を取り除く作用があることから、痛風や関節炎などにも使用されるほか、血糖値を下げる効能も確認されています。根は脱毛とふけを予防するコンディショナーとして、伝統的に用いられます。

◆ 和名     セイヨウイラクサ

◆ 学名     Uritica dioica  

◆ 主要成分  フラボノイド(クエルセチン)、フラボノイド配糖体(ルチン)、クロロフィル、フィトステロール(β-シトステロールなど)、βカロチン、ビタミンC、葉酸、ミネラル(ケイ酸、カルシウム、カリウム、鉄)

◆ 作用     利尿作用、浄血作用、消化促進作用、収斂作用、強壮効果、滋養、止血作用、母乳分泌促進作用、壊血病の予防

 

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安曇野に架かる橋(10)~田畑を潤す堰をまたぐ平成橋

北アルプス山麓に広がる安曇野は、県内でも有数の穀倉地帯です。豊かな大地の恵みをもたらすのも、清涼な水があればこそといえます。

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しかし、昔から水に恵まれていたわけではありません。河川は多いものの勾配のある扇状地は、山間地を下る途中で伏流水となり地中に潜んでしまいます。

このため日照りの年はもちろん、慢性的な水不足に悩まされてきた歴史があります。耕作地はごく限られたところのみで未開の原野が広がっていました。

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これを解消するために、200年ほど前、昼夜分かたぬ農業用水路の開削工事に励んだ先人たちがいました。

庄屋の等々力孫右衛門と息子の孫一郎が、堰の開削を計画、図面をひき測量を行い十カ村の村人の労働力とともに全長15キロの水路の造成に成功したのです。農閑期のわずか3カ月間の突貫工事でした。
この開削の成功で農耕に欠かせない水が安曇野一帯に引かれるようになりました。安曇野に農地が広がり、大地からの恵みをもたらすようになったのです。

安曇野では、古くから農業用水路を「堰(せぎ)」と呼んでいます。その中心水路が拾ケ堰(じゅっかせぎ)です。拾ケ堰は安曇野の近代化遺産といっても過言ではないでしょう。現在、灌漑されている農地は1,000haに及びます。

下の写真は、まだプールのなかった昭和31(1956)年当時、拾ケ堰で水遊びする子どもたちの姿で、格好の遊び場でもありました。

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近年、拾ケ堰の改修も終え、平成元年(1990)年に「平成橋」が架けられたほか、堰を横切る何本かの橋も架かっています。

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拾ヶ堰は農林水産省の「疎水百選」にも選定され、堰に沿ってサイクリングロードや散策路、広場も整備され憩いの場となっています。

休憩地となる自転車広場の近くは、桜や柳の木が植えられ、お花見のころは遠くに雪を被った常念岳を借景に、絶好の撮影ポイントとしてにぎわいます。

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ビューポイントといえば、すぐ近くに“野中の一軒家”があり、四季折々、アングルを考えシャッターを構える写真愛好家の姿も見られます。

*  白黒写真は、「松本・塩尻の昭和史」(郷土出版社)から撮りました。

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その後、目にした安曇野の屋根瓦-4  鍾馗瓦(その4)   

穂高矢原といえば、安曇野の中でも古くから開けてきた地域になります。何度もこの辺りを探索していたのですが、「お蕎麦屋さんの屋根に鍾馗さんがある」という情報を得て翌日の休日、さっそくカメラ片手に…。       

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お蕎麦屋さんと棟続きの蔵の上に在りました。通りに面しているのですが、前を通っただけでは分からない死角になっていました。

さっそく、おとんさんの掲示板に情報提供しますと、おとんさんからのコメントが帰ってきました。

「右足を踏み込んで右手を膝に。その手に剣を握りしめた格好はいいですね。折れやすい剣を体から離して手に持たせているのが味噌ですね。屋根を修理する瓦職人さん、ものを当てて剣を折ったら……と冷や冷やしながらの作業になるんでしょうね」。

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「折れやすい剣」といえば…。

安曇野とその周辺を回ってみて、最も多く目にする鍾馗さんは下の写真のタイプです。たびたび目にしますので、量産され広く流通しているもののようです。

顔の表情も強面(こわもて)で威圧感があり、左の手を広げ悪霊や疫病の侵入を遮る仕草などデザインとしては、よくできた鍾馗さんだと思います。

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ただ、この写真でも右手にした刀剣が欠落していますが、同じように刃のないものが多いのです。おとんさんがおっしゃるように、強い風雨やものが当たっても欠損しないようなデザインにしなければなりませんね。

安曇野の隣り、筑北村を回るとこの種の鍾馗さんが多いことが分かります。(この鍾馗さんについては、kiteさん運営のこちらのブログで詳述しています)

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同じいぶし銀ではつまらないのでしょうか。こちらは赤銅色に彩色され…

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こちらは…

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白銀色に、しかも二体並んで飾ってあります。

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安曇野と周辺では、鍾馗瓦にかかわらず飾り瓦の圧倒的多くは大棟の上(中央部であったり、両端に対で)に飾られています。

従って小屋根の上や壁などに置かれているのを目にするのは、稀といってもいいでしょう。

しかし下の鍾馗さんは、家をグルリ囲った塀の上にありました。このお宅の部屋の窓が映っているのでお分かりでしょう。

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こちらのお宅は、一階の小屋根の上です。疫病神が窓から侵入するのを防ぐお呪いでしょうか。

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上の2枚の写真、いずれも剣が欠損しています。

その上の写真でお分かりになるでしょうか、細い剣が鍾馗さんの身体から離れて単独で上を向いています。これでは、少しの衝撃にも耐えられないのではないでしょうか。

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上の鬼瓦部にある小さくてかわいい鍾馗さんは、安曇野・三郷地区で初めて見つけたものです。三郷地区もこれまでになんども探しているのですが、鍾馗さんになかなか巡り会えませんでした。

高い位置にあるので、手持ちのカメラではこれ以上のものは撮れませんでしたが、おとんさんはしっかり鑑定してくださいました。

「鍾馗さんの右脇腹あたりに剥がれている部分があり、案外古いのではないでしょうか。
一品ものの強みでしょうか、ほかにはない鍾馗さんを!という作者の意気込みが感じられます」。

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安曇野に架かる橋(9) 石楠花が描かれている高瀬橋

安曇野市と池田町の間を高瀬川が流れ、そこに架かっている橋が高瀬橋です。ここに最初に橋が架かったのは、明治17(1884)年、今から130年ほど前になり木橋でした。

穂高島新田と池田会染を結び、それ以前は北国脇往還道上にある重要な渡しで、古くから渡舟がありました。「高瀬の渡し」と呼ばれ、渡舟銭は2銭だったということです。

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川の中央部が2市町の境になるのですが、川は区切れませんので橋の中央部で安曇野市と池田町に分けています。その目安として橋げたの飾り物にそれぞれを代表する花木をデザインしています。

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安曇野市側は石楠花(しゃくなげ)、池田町側にはラベンダーが描かれています。

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高瀬川は、秀峰・槍ヶ岳に源を発します。北アルプスの尾根沿いに流れ大町市の西側に達し、北アルプスと大峰高原に挟まれた安曇野の盆地を南流し明科・押野崎で犀川と合流します。その間、約56㌔㍍になります。

そして、ここを流れた川水は日本海に注ぐまで284㌔㍍の長旅に出ます。

現在の橋は、平成12年に竣工しましたが、それ以前は下の写真のような鉄筋コンクリートローゼ橋でした。昭和28(1953)年に池田鉄道の橋桁を再利用したものでした。

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池田鉄道は信濃鉄道(今のJR大糸線)の安曇追分駅から分岐して池田町までの6.9㌔㍍の間を走行した電気鉄道です。大正15(1904)年に創業したもののまもなく経営不振が続き、11年8ヵ月後の昭和13(1938)年に廃止に追い込まれ極めて短命に終わった私鉄のことです。

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池田町の七色カエデが色づく頃、全国から紅葉狩りに訪れますが、この大カエデがあるのが大峰高原です。大峰高原は、活断層の糸魚川静岡構造線(フォッサマグマ)の活動で隆起した山地になります。

そして、このフォッサマグマの活動により沈降した窪地をぬって、槍ヶ岳の雪解け水を集めて高瀬川が流れています。

* 白黒写真は「懐かし写真館 昭和の街角 大町 安曇野 北安曇」(郷土出版社)から撮りました。

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サルのたたり~明科・清水

むかし、清水に梅三じいがヤギやニワトリを飼って暮らしていました。餌をやろうとして小屋に行くと、小屋の戸が開いていました。「ちっ、サルのしわざだな。夕べ、しっかり木鍵(きかぎ)をしていったのにな」といまいましく思いながらヤギを探していると、畑の端で草を食べていました。

連れて帰ろうとすると、「そら、おらとこのヤギだ。梅三じいのヤギは、おらとこのヤギ小屋にいるで」と、隣の長作の息子の佐吉が後ろから声をかけました。

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「そう言やあ、おらとこのヤギはあごひげはなかったな」と、間違ったことに梅三じいは気がつきました。「こんど見つけたら、こっぴどく傷みつけてやる」と二人はサルのいたずらにかんかんでした。梅三も佐吉も手ぐすねひいて待っていたのですが、その後、サルは姿を現しませんでした。                                    

それから三月ほど経ったある日、梅三じいは裏の畑で麦を播いていました。自分を誰かか見ている気配を感じて家の屋根に目をやると、あのいたずらザルが屋根の上にいたのです。梅三はサルに気づかれないように、そっと佐吉に知らせに行きました。

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佐吉は、待ってましたとばかり、小脇に弓を抱えて出てきました。佐吉は物陰に隠れ「サルめ、おらが射落としてくれるわ」と、弓に矢をつなぎ、糸を引きました。「佐吉、ちっと、ちっと待て。あれはなんだ」と梅三じいが止めました。

サルは二人の方を見て、弓で撃たないでくれというような仕草で手をすり合わせているように見えます。よく見るとサルのお腹が大きく、身ごもっているようです。

梅三じいは、佐吉から弓を取り上げました。サルは命拾いしたお礼をするように、なんども頭を下げて森へ帰っていきました。

             090(弓矢で撃たないでと哀願したときのサルの表情と仕草はこんな具合だったでしょうか=大町山岳博物館蔵)

そんなことがあってから数日経った日の朝、まだ寝ている佐吉の家の戸をたたく音がしました。戸口へ行ってみると、だれもいません。「また、あのサルめが来たな」と、急いで弓と矢を持って、戸口の内側に隠れて戸をたたくのを待ちました。
やがてドン、ドンと再び戸をたたく音がしました。佐吉が思いっきり戸口を開けると、やはり、あのサルでした。佐吉は、すばやく弓に矢をつがえ、糸を引きました。                                    

サルは森に向かって、懸命に逃げていきました。その後ろ目掛けて、手を放つと鋭く飛んでいった矢は、サルの背に当たりました。サルは苦しそうにもだえていましたが、やがて息絶えてしまいました。その姿を見届けた佐吉は、梅三じいの家へ向かいました。

梅三じいは、ニワトリを小屋に入れているところでした。「ゆんべ、いたずらサルにまた戸を開けられただ。六羽は見つけただが、あと三羽が見つからねえだ」とぶつぶつ言っています。

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「あそこだで」と佐吉は柿の木を指さしました。梅三じいは、やっとのことで木から三羽のニワトリを降ろし、小屋にいれました。そんな梅三じいの姿を見ていた佐吉は、サルを射止めたことが話せませんでした。

                   217(佐吉がサルを射った弓矢は、このようなものだったのかも知れません=堀金民俗歴史資料館蔵)

サルが息絶えてから、少し経ちました。不思議なことに、あんなに元気だった佐吉が病気になってしまいました。それから少し経って、佐吉の父親が木から落ちて大けがを負いました。そして母親も、山仕事をしていて木の枝で目を突いてしまいました。佐吉の家のものがみんな働けなくなってしまいました。

そんなことが、村の人たちの口から口へと伝わり、サルをいじめたらたたりが及ぶと言い伝えられるようになったということです。                                    

   

          * 『 明科の伝説 岩穴をほった竜 』(降幡徳雄著)を参考にしました。                               

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その後、目にした安曇野の屋根瓦-3  鍾馗瓦(その3)

今月のある日、開店して間もなく、一人の若い女性が来店されました。
「鍾馗さんの屋根瓦に関心を持っているものです。こちらのブログに鍾馗さんが載っていましたので、在り場所を教えていただけないでしょうか」と来訪の目的を告げられました。

山梨県から車を飛ばしてきたとのこと。所用も入っていましたので限られた時間内で道案内することになり、すぐに車に同乗していただき、8カ所ばかり撮影に出かけました。

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お聞きしますと、鍾馗探訪歴6年とか。遠く京都や三重県内などにも何度か足を運ばれていて、kiteさんの師匠さんで瓦鍾馗研究の先駆者・服部正実さん(京都府在住)に師事したこともあるということです。

naoさんと名乗る“鍾馗ガール”さん、300ミリ望遠を構えたポーズも堂に入ってます。

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そして、A地点からB地点へ移動する道すがら、後部座席から「ありました!」の声。これまで未発見だった鍾馗瓦2体を見つけていただきました。

その一つが上の写真。豊科中曽根で見つけたものです。最近の新しいものですが、威風堂々としている鍾馗さんです。

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こちらもnaoさんが見つけて下さった豊科駅前通りにあった鍾馗さん。「このポーズ、歌舞伎役者が見栄を切るのに似ていますよね」と笑みを含んで評したnaoさん。

そうです。市川團十郎の歌舞伎十八番「暫(しばらく)」で、鎌倉権五郎が花道から出てきたときのあのポーズです。似ていますよね。

この鍾馗さんも、右手に持った剣の刃部分が欠損していて、柄(つか)の部分が僅かに残っています。

「いえいえ、剣が欠けていても勇ましい鍾馗さんですよ。左手を丸めて形を変えれば弓を引いている格好になりますね」は、大阪府在住のおとんさんの評。

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この日見て回った鍾馗さんで、これまでに当ブログでご紹介していないものを掲載します。

これは上の鍾馗さんのすぐ近くにある居酒屋さんで、リフォームした蔵の上に据えられてあるもので、対になっているうちの一つです。(入口側の上にいる鍾馗さんはこちらです。鍾馗瓦を研究しているkiteさんの資料はこちらになります)

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明科中条の小屋根の上にいた鍾馗さんです。立派に蓄えた顎鬚(あごひげ)に手をやり、自慢げでしょうか。

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豊科熊倉にある鍾馗さん。こちらは少しメタボ気味?

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naoさんは、やはりほほ笑んで「エジプトのスフィンクスに似ていません?」と印象を語ったのが、下の鍾馗さん。あのライオンの身体と人間の顔を持った神聖な怪物を模った石像に確かに似ていますね。

蛇と禿鷹(はげたか)のついた頭巾を被った黄金マスクのツタンカーメンも連想できるかな? 明科押野にあります。

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そして、別れた後にnaoさんが単独で探し当てた鍾馗瓦です。豊科新田の「立派なお屋敷の屋根に在りました」とのことです。

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下は、豊科田沢の国道19号沿いにある鍾馗さん。この日、案内できなかったのですが、さすがnaoさんはご自分で探し当ててきました。

naoさん曰く「変わり種の鍾馗さん、マンガチックで笑えます」。

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naoさんの鍾馗瓦評、的確でおもしろい表現、勉強させていただきました。

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トラブル肌にお薦めの薬用入浴剤

乾燥した肌にうるおいを与えるカモミールのエキスがたっぷり入った薬用入浴剤「華密恋」をご紹介します。

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ヨーロッパでは古くからカモミール(カミツレ)は、消炎、保湿、保温、発汗、鎮静成分などを多量含まれていることが知られ、生活のさまざまな場面で使用されてきました。

華密恋は、カモミールが持つ保湿、保温などの自然の力(効果)を最大限に生かすため、加熱せず清澄な水と植物由来の発酵エタノールを用いた独自の抽出法でエキスを取りだしています。

このためデリケートな赤ちゃんの肌やアトピーなどのトラブルをかかえた敏感な肌の方にも、やさしく作用し効果をもたらします。合成香料、合成着色料、合成保存料などの添加物は一切使用していない天然のエキスですので、安心してお使いできます。

カモミールの薬用入浴剤・華蜜恋 
                400ml入り  2,310円(税込み) 写真右
      詰め替え用   350ml入り  1,995円(税込み) 写真左                

* 〔 カモミールの薬用入浴剤・華蜜恋  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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その後、目にした安曇野の屋根瓦-2  鍾馗瓦(その2)

豊科吉野の民家で見た現代風の均整のとれた鍾馗瓦です。

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「その後、目にした…鍾馗瓦(その1)」でもご紹介したkiteさん、おとんさんのお二人が限られた時間の中で探し当てた安曇野市内の鍾馗さんを紹介します。

堀金中堀の農家の二階建て資材庫の屋根上にあった鍾馗瓦です。

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壁には、代掻きに使用した鍬などの農具が掛かっています。その大棟に鍾馗さんが飾れてい るのがお分かりになりすか?

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柄に手をやり、悪霊あらば一刀両断に成敗せんと構えるなんとも頼もしい鍾馗さんです。

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この鍾馗さん、刀剣を鞘から抜いたのがこちら。対で掲げられています。

下の鍾馗さんは、豊科高家(たきべ)の小屋根の上に飾られていたものです。全国を探訪しているお二人ですので、嗅覚が働くのでしょうか(?)、鋭い感性で知らなかった鍾馗瓦を探してきました。

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下は筑北村で見かけた屋根瓦です。鍾馗さんのようでもあり、そうでもないような…。そこで、瓦鍾馗を研究されているkiteさんと、おとんさんに鑑定していただきました。

おとんさん 「鍾馗さんだと思います。進士巾をかぶっているようですし、顎髭もありますから」

kiteさん 「私も鍾馗さんだと思いますよ~。鍾馗さんの特徴があらかた欠落してしまいましたが、他の人物であるという特徴もないですし。鍾馗さんとしてリストアップしておきましょう」

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同じ筑北村にあった鍾馗の文字を刻んだ瓦です。

瓦鍾馗といえば、長い髭を蓄え、中国の官人の衣装を着て剣を持ち、大きな眼で悪霊や疫病を寄せつけないため睨みをきかせている姿が湧いてきますが、「鍾馗」の文字で悪霊は退散するのかな?と拍子抜けしました。

それに鍾馗さんの鍾の文字が、「鐘」に化けています。

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こちらも、鐘になっています。「少し線が細いな、もっと肉太な文字にして悪霊に睨みを利かせて欲しいな」と思ったのですが…。

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そして、これは極めつけといったところでしょうか。「鍾鬼」と刻まれた文字瓦です。小鬼を退治するのが鍾馗さんで、鍾馗さんは「鬼」ではないはず。

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瓦職人さんの遊び心? それとも単なるミステークなのでしょうか。

これも分かりません。


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安曇野に残る“戦時遺産”を探して

終戦66年後の記念日に、安曇野に今も残る戦争時の跡を訪ねてみました。

穂高有明に根元が朽ちはて、草むらに倒れている記念標と一本の桜の若木があります。記念標には、墨痕も鮮やかに「戰友櫻」と書かれています。

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太平洋戦争も昭和19(1944)年になると、アメリカは日本が侵出したマーシャル群島、サイパン、グァム、テニアンなどの諸島を奪還し、それらを発進基地として日本本土への爆撃を繰り返しました。日本は国土防衛に追われるほどに戦局の悪化に追い込まれます。

大本営は、軍の編成を組み直し、「納部隊」という師団を新たに作りました。“本土決戦をして納める”という大本営の期待がこめられ、「決部隊」とも呼ばれていました。

この決部隊の1個連隊が、穂高有明で同年7月から軍事訓練を始めました。本土決戦に備え、敵が関東地方の海岸に上陸することを想定した訓練だったと いいます。このため有明演習地のあちこちに「タコつぼ」と呼ぶ穴を掘り、兵士は爆雷を背に、その穴に隠れ敵戦車が近づくのを待って体当たりするという自爆のための匍匐(ほふく=腹這いになって前へ進む)訓練が中心でした。

いつ上陸するか分からない米軍を腹這いになって迎え撃つために、週2回は「飲まず、食わず、吸わず、眠らず」の24時間訓練と称することも繰り返されたといいます。

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一定の訓練が済むと部隊の一部は、米軍の上陸地点と想定された九十九里海岸に移動しましたが、日本の無条件降伏で戦うことなく現地で終戦を迎えました。

安曇野・堀金出身で作家、文芸評論家の臼井吉見も決第6665部隊に配属され、第2大隊第6中隊第二小隊長として昼夜を分かたぬ訓練を続けていました。その様子が大河小説『安曇野』~第五部その二五~にでてきます。

「戰友櫻」は、長野県人だけで召集された決第6665部隊第9中隊(池田隊)201名が、戦後57年を経て、当時の辛かった体験をともにした戦友たちが思い出の地に植樹した記念樹と標柱です。

標柱には「厳冬雪原の有明演習場で昼夜を問わず僅かな高粱飯と薄い味噌汁だけで」訓練に励んだと書かれています。高粱飯とはモロコシの一種で、雑穀のコーリャンを炊いたご飯のことです。         ………………………………………………………………………………………………

昭和19年、米軍の最新鋭爆撃機B-29によって安曇野市穂高の街中と有明の畑に10数発の爆撃を受けたことについて以前書きました。(詳しくは、こちらです)    

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有明に投下された爆弾は死傷者を出しましたが、すさまじい爆風は周辺に多くの被害をもたらしました。現在、その跡を残す建造物などはありませんが、二基の馬頭観音像が原形を辛うじて残しながら路傍に佇んでいます。

これも爆風によって砕かれたもので、昭和19年5月の“戦時遺産”として静かに語りかけてきます。          …………………………………………………………………………………………………

下のポスター写真は、当時の内務省が制作した戦時啓発を目的としたもので、昭和12(1937)年に制定された「防空法」に基くものです。この法律は日中開戦前に制定されていますが、 このころになると各国が航空戦力を増強していました。このため、戦時に空襲があることを想定して、これに備えるため「防空法」が制定されました。

          

防空法は、国民生活のすみずみまで細かく規制したり統制する内容を含みました。そのために「隣組」という国(大政翼賛会)が決めた方針内容を実践する最末端の組織を作りました。この「隣組」は、隣近所5~10戸程度で構成されました。

隣組は、空襲に備えた防空壕作りや近隣に焼夷弾が投下された場合の消火活動から、灯火管制、兵士の送迎、国債募集、金属回収など様々な任務を地域で担いました。

以前に書いた学童疎開も、この防空法による措置でした。疎開は人に限らず、建物にも及びました。昭和17(1942)年4月、米軍が最初の日本本土を爆撃すると空襲に対する危機感は一層高まりました。工場など建物の強制疎開が始まります。疎開させた建物は、火災を防ぐために収容した後は取り壊しました。

穂高有明にあるワシントン靴穂高工場跡も、昭和20(1945)年に東京にあった直営工場が疎開してできたものです。銀座ワシントン靴店の創業者が穂高出身であったことから、軍からの強制で故郷に工場疎開し、平成15(2003)年まで操業を続けていました。

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また、「白い建物や光った屋根を保護色に塗り替えること」なども決め、民間にも強いることになりました。穂高の市街地に残る蔵造りの白壁は、当時黒く塗りかえられたままの状態で現在も残っています。

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壁面はもちろん、扉の内側まで黒く塗られました。

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安曇野に架かる橋(8)~ワシントン街道にあった富田橋

穂高駅から西側に面する北アルプスに向かう道を登ってくると、橋に差し掛かります。下を流れる烏川に架かる富田橋です。コンクリート製の見るからに頑強そうな橋です。

橋の上から、信濃富士の別名をもつ有明山の秀麗な姿が正面に望めます。

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竣工が昭和39(1964)年ですから、誕生後50年を経て現役で活躍していることになります。欄干のシンプルな格子柄が古い歴史を語るかのように、際立って見えます。

橋の延長は123㍍、幅員は6㍍です。

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この富田橋が初めてできたのが大正13(1924)年で、木橋でした。これによって有明地域と穂高中心部が結ばれ、当時の主要幹線道であった北国脇往還道や千国道との行き来ができるようになったとの記述が、「穂高町誌」にあります。

その後、補修や架け替えを重ね、現在のコンクリート橋になっています。

国道147号側から富田橋を渡り、堤防道を下流沿いに行くとまもなく大きな九棟の建屋が見えます。ハンセンスな高級靴で知られた、銀座ワシントン靴店の有明工場跡です。

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昭和20(1945)年に空襲の激化にともない、直営工場を東京から穂高有明に移し、平成15年まで生産拠点として操業していました。下の写真は、昭和28年当時の工場内部の模様です。

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昭和40年代に最盛期を迎え、婦人靴の生産は1日1000足を超え従業員も800人を数えたといいます。

後日、当時の様子を取材した地域紙は「毎朝、最寄りの穂高駅から工場までの道は、電車通勤の従業員が列をなし『ワシントン街道』といわれた」と記しています。

“ワシントン街道”にこの富田橋がありますので、朝夕、たくさんの通勤者が格子縞模様の橋を渡ったことでしょう。

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メディカルハーブ-16    レッドクローバー

牧草として日本にも帰化したおなじみのクローバーです。赤紫色の花をつけ、花から甘いクローバー蜂蜜が採れます。葉は、緑色の3枚の小葉があるのが通常です。

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弱いエストロゲン様作用物質を含んでいることから、のぼせをはじめとする更年期障害に用いられます。閉経後の女性では、コレステロール値の低減も助けます。

抗ガン成分を含有していることが確認され、1930年ころから乳がんの治療などに使用されています。

ほかにも多くの効能があり、抗凝血作用があり冠動脈血栓に効果があることや風邪インフルエンザの症状緩和にも役立ちます。去痰、子どもの皮膚疾患にも有用です。

妊婦や、ワルファリンなどの抗凝血薬を使用している人には使用しません。

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◆ 和名     ムラサキツメクサ

◆ 学名     Trifolium pratens   

◆ 主要成分  イソフラボン(エストロゲン様物質)、アントシアニン、シリカ、コリン、カルシウム、レシチン

◆ 作用     利尿作用、鎮頸作用、消炎作用、精神安定作用、腫瘍の成長抑制作用、抗凝血作用、女性ホルモンの分泌調整

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(22)~有明山

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


安曇野から見える山岳で人気のある山といえば、数多い中でも常念岳と有明山になるでしょうか。どちらも山容が整っていて、目を惹きやすい姿をしています。         

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中でも有明山は裾野を広げた台形の山姿は、日本を代表する富士山に似ていることから信濃富士、有明富士とも呼ばれたりして親しまれています。

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上がテレビ画面に映し出された有明山で、下が写し撮った春先の姿です。    

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有明山は、ドラマの中でもたびたび姿を現しています。

陽子たち一家が昭和7(1932)年、東京から安曇野へ引っ越してきた冒頭場面にも映っていましたし…

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朝もやの中、父が引くリヤカーに乗った母が病院から陽子たちの待つ家へ帰る場面にも登場していました。

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リヤカーはこの道を通りました。道の向こうに違った角度から見た有明山が姿を見せています。ロケ地の位置からは有明山のたおやかな稜線や山容も消えています。

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陽子が幼友達のユキと将来について語り合ったシーンにも、有明山が背後で二人を見守っていました。

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ユキとの別れの場面にも出てきましたね。ロケーションの場所は、リヤカーを引いた場面と同じ穂高川沿いの農道です。

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陽子が成長し、女学校に通学するようになってからは茂樹が引くリヤカーに乗って家に帰るシーンで同じ道を通ったのですが、有明山は雲に遮られ姿を表しませんでした。

母校に勤務するようになってからは有明山を借景にした現地ロケがありませんので、画面上は大写しになった有明山が映っています。

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標高は2,268㍍ありますが、北アルプスにあっては高峰ではありません。花崗岩からなる険しい岩山でクライマーも気を抜けない山だといいます。位置的には北アルプス表銀座の前方の山になります。

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森林限界がなく、全山の多くが針葉樹林に被われています。冬から春にかけて周囲の峰々が雪に被われ白く輝く中、ひと際黒ずんで見えます。    

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昔から山岳信仰の山としても知られます。明治から大正初期にかけて、白衣に鈴を鳴らして「六根清浄」を唱えながら登る大勢の信者でにぎわったといいます。

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冬に白鳥が飛来する明科中川手の御宝田遊水池からも、有明山の美しい姿を見ることができます。このためシーズンは、有明山を背景にシャッターチャンスを狙う大勢のカメラマンたちでにぎわいます。

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* 有明山にまつわる民話があります。この昔話はこちらをご覧ください。


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その後、目にした安曇野の屋根瓦-1  鍾馗瓦(その1)

穂高有明にある築100年を超える古民家。昔はこの一帯の農家がそうであったように、2階が蚕室でした。

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玄関の小屋根の左隅に瓦鍾馗が乗っていました。この地域でこれまでに見てきた鍾馗さんとは容姿も違って、筋骨隆々とした体躯で眼光も鋭く、悪霊を寄せつけない堂々とした一品もののようです。

長い年月、屋根に乗っていたこともあり、右手の部分が欠損しています。鍾馗さんは通常、右手に剣を持ちますので、腕の流れからみて刃の先は下を向いていたのでしょうか。

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以前、全国の瓦鍾馗の探訪を続けているkiteさん(愛知県在住)とおとんさん(大阪府)が安曇野地域の探索に訪れたことを書きました。その際、お二人から教わったことがあります。

大棟の一方に鍾馗瓦があった場合、必ず反対側にも回ってみるそうです。そうすると、また別の鍾馗さんがいる場合が多くあるそうです。つまり大棟の両端で対で見張り、悪霊の侵入を防ぐという意味があります。

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右隅側に回ると、やはり、鍾馗さんが乗っていました。こちらも目は鋭く、研ぎすました剣の切っ先を斜め上に向け、疫病といつでも戦える姿勢にいます。

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JR篠ノ井線の田沢駅のすぐ前を国道19号が南北に走っています。そのすぐ近くに古い民家があり、今は無人のようです。その民家の大棟に鍾馗さんがいました。

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ここの反対側にも別の鍾馗さんがいました。

安曇野では、対で乗っている事例はあまり多くありません。対で飾られているのを見たのは、今回掲載している3例のほかに4軒ほどでしょうか。

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豊科中曽根にある鍾馗さんです。右手に剣、左手で捕まえているのは小鬼です。(なぜ小鬼を捕まえているかというのは、こちらを参照ください)

安曇野には、こうした小鬼が登場する鍾馗瓦は、めったにお目にかかれません。kiteさんとおとんさんのお二人は、短い安曇野滞在中に次々と新たな鍾馗瓦を発見しました。そのうちの一つです。

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お二人の話によりますと、関西地方ではお寺の周辺を探すと多くの鍾馗瓦を見つけだすことができるということです。それは悪霊や邪鬼を寄せつけないため鬼瓦を屋根に飾るお寺さんが多く、その霊力は絶大と信じられてきました。

お寺の鬼瓦に撥ねかえされた邪鬼たちは、行き場を変えて近くの民家に入ろうとします。しかし、そんなものが入ってきてはかないません。そこで邪鬼退治の勇将・鍾馗さんの登場となります。鍾馗瓦を屋根上や玄関近くの壁などに飾り、追い払ったり捕まえてもらおうというわけです。

ですから、お寺周辺の民家にはよく見られ、奈良、京都など歴史の古い街で多いということです。お二人は、こうしたことからお寺周辺で見られる鍾馗瓦を「お寺鍾馗」と分類しています。

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しかし、安曇野には、この法則が当てはまりません。 

お寺の近くを見渡しても鍾馗さんを見ることはほとんどありませんし、飾られているのは屋根の上です。家の壁などにくくりつけられるように設置されているのは、まずありません。

「ところ変われば品違う」ではありませんが、どうしてこうも違うのかは分かりません。

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安曇野に架かる橋(7)~ひときわ目を引く朱色の穂高橋

安曇野市穂高の北側を、穂高川が東西に横切る形で流れています。ここに朱色に塗られたひときわ目立つ「穂高橋」が架かっています。

穂高橋は、昭和31(1956)年にコンクリート橋が竣工しましたが、昔は北国脇往還道が通っていて渡しがありました。往来を確保する私渡舟が交通の便でしたが、明治17(1884)年になって木橋が架けられました。

その後、洪水などで流されたため、4度改修を繰り返しましたが、昭和7(1932)年になってコンクリート製の永久橋になっています。

現在の穂高橋は、松本市~安曇野市~大町市を結ぶ国道147号上の鋼製トラス橋です。

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安曇野市内で、この国道とJR大糸線がほぼ平行して走り、穂高川の辺りで最接近します。ですから車に乗っていても、電車に乗っていても互いの橋を見ることができます。

大糸線の橋は「穂高川橋梁(きょうりょう)」と呼び、緑色に彩色されています。

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どちらも全長192㍍余りになります。国道と大糸線は、この先の土場の手前で交差します。

穂高橋ができた当時、この橋の工事の模様を地元の画家・征矢野 久(そやの ひさ)さんがスケッチして水彩画で残しています。

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征矢野さんは「穂高、有明間に架かる橋が老朽化したため、全面的にコンクリ化し、現在の橋となった。当時、ほとんど車が通らなかったため、巨大な橋に見えた」と語っています。

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穂高川は、有明山に源を発し中房川を形成し有明で乳川(ちがわ)を合わせ穂高川(別名・乳房川)となり、さらにこの穂高橋のすぐ近くで烏川と合流して流れ、白鳥が飛来する明科中川手(御宝田)で犀川と一本の川となります。

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目赤不動~堀金・田尻

むかし、田尻の不動堂では、毎年一月にお不動さまのお祭りをしていました。白装束(しろしょうぞく)姿の行者が、火のついた縄の上を歩いてわたる「火渡り」が見れることもあり、遠くからも見物人が来て大勢の人たちでにぎわいました。                                    

ある年のお祭りのときのことです。いつものように行者が火渡りをし、その後、口から火を噴く行(ぎょう)を見せると、小雪まじりの風が吹き、寒さにふるえていた見物人から大きな拍手が湧き起こりました。

     021           (不動さまに願掛けし、成就した人たちの謝意をこめた木札が奉納されています)                                 

祭りが終わり見物人が帰った境内は、がらんとして燈明(とうみょう)に灯した火が揺れていました。お堂の燈明の番をする滝造と茂吉の二人が残っていました。風が強くなり、火渡りをした縄の後から、ときどき火の粉が舞い上がっていました。二人は、水をかけ火事にならぬよう火の始末をしたあと、本堂で碁を打ち始めました。                                   

茂吉が、次の手を考えている間、辺りを見渡していた滝造はビクッとしました。お堂の真ん中のお不動さまが、真っ赤な燃えるような目で、滝造をにらんでいたのです。「どうしただ、滝造さん」「お不動さまがせえ、おらのことジイッとにらんでいただ」                                                                           
茂吉が振り向くと、目赤不動の目が真っ赤に燃えているように見えました。この目赤不動は、目の病を治す不動さまとしてお参りに来る人たちも多く、大人の背丈をはるかに超える大きな立派な不動さまで、村人の自慢でした。

          015_2(不動堂のなかは真っ暗で、フラッシュをたいて目赤不動が見えましたが、茂吉が助け出した不動さまはかなりの大きさです)                                 

二人は碁を打ち続けていると、境内の方で「ガターン!」と大きな音がしました。「なんの音だいね。行って見てくるわ」と、先にたって見に行った茂吉が「てえへんだー。燈明が倒れて燃えているぞ」。二人は桶で水を汲んできてかけました。しかし、風が強かったこともあり火の勢いが止まりません。                                    

「火事だー!」「不動堂が燃えているぞー。大変だー」近所の人たちも火に気づき、半鐘(はんしょう)を鳴らし、駆けつけてみんなで火を消しましたが、火の回りは早く、お堂は火に包まれました。滝造は、夢中で火を消しながら「そうだ。あの時、お不動さまが、おらをじいっとにらんで何か言いたそうにしていたのは、これだったんだ」と、お堂の中に飛び込んでいきました。

     016                      (暗がりの中でも、不動さまの目が赤いのが分かるでしょうか)

その後ろ姿を見た茂吉が「あれっ、滝造さん。あぶねえー」と叫びました。やがて煙がもうもうと立ち込めている本堂からズシリ、ズシリと歩いてくるものがありました。「うわあっ。お不動さまが出てこられたぞー」。真っ赤に燃える目で周りをにらみ、堂々としたお不動さまが現れたので、大騒ぎになりました。                                    

それが、滝造が背中に背負っているのだと知った村の人たちは、もっと驚きました。「滝造さんは、よくあの大きな不動さまを助け出すことができたもんだ」。本堂も焼け落ちてしまいましたが、お不動さまは、片腕を焦がしただけで、無事助け出されました。それだけが村の人たちにとっては、災難の後のたった一つのなぐさめでした。

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火事に遭っても、運び出されて助かった運の強い目赤不動を、村の人たちは「運が開ける不動さま」として、以前にも増して大事に祀るようになりました。火事のあと何年もかけてお堂も建て直されました。                                    

                                 

         * 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(21)~父・良一がこよなく愛した酒

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


ドラマのなかで陽子の父・良一は、毎日晩酌に一合の酒を飲みます。

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食糧事情をはじめ物資の不足していた時代ですので、酒を手に入れるのも大変だったろうとも思うのですが、食卓には一合の酒が必ず用意されています。

特別なことがあった時は、子どもたちにも酒を勧めたりしていました。

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タケオに赤紙(召集令状)が届いた時は、祝い酒のつもりが涙交じりの複雑な感情の混じった酒になりました。

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父と松本へ行った際、立ち寄った丸庵で陽子も勧められるまま酒を含み、和成と結婚したいと心の内を語ったのも酒のもてなしを受けた席でした。

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そして、三々九度の固めの杯。

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新婦の父親から新郎・和成も一献。

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祝いの席で披露されたのが「正調安曇節」に合わせた踊りでした。

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父・良一は、真知子の父親で「安曇野の帝王」と自他ともに認める資産家・相馬剛三とも杯を交わしました。

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名古屋の工場が松本に疎開したことから安曇野に戻った良一は、陽子の嫁いだ丸山家へあいさつに訪れた席にも…。

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そして、“帝王”が須藤家を訪れ、紡績工場を始めることになり良一に誘いかけたときもテーブルには、お銚子が二つ載っていました。この時は、まだ外は明るかったのですが…。

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ドラマの中では、ともかく良一を軸に酒がよくでてきました。

それもそのはず、安曇野と周辺は日本酒の原料となる酒米、良質の水、醸造に適した気温など酒造りには最適な地で、その昔から地酒、造り酒屋も多かったからでしょう。

穂高神社には、近郊で造られた樽酒が奉納されます。

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そのものずばりで「安曇野」と銘打った酒もあります。

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「安曇野」商標の清酒を醸造している北安曇郡池田町の酒造会社の酒蔵です。

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三郷に明治初頭(1870年ころ)から、20年ほど前まで醸造していた酒蔵が今も残っています。三棟の大きな蔵があり、最も大きな蔵は、床から天井部まで10㍍以上あり、仕込み、麹作り、発酵などが行われていたということです。

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板壁からしみ込んだ酒の香りが匂ってきそうです。

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こちらは江戸期の文化年間(1810年ころ)に創業を始めた豊科にある旧酒蔵で、今は菓子舗になっています。国の有形文化財として保存されています。

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それぞれの造り酒屋では、冬になると新酒の仕込みに入ります。そして、新しい清酒ができ上がると軒先に、スギの穂先を集めて作った杉玉を飾ります。

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これが新酒ができ上がったということを知らせる目印になります。         



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蚊を寄せつけない月桃の虫よけ香

蚊などが飛び回る季節になりましたが、月桃(げっとう)という沖縄産のハーブを主原料に化学物質を使わない“虫よけ香”で快適に過ごすことができます。

屋内外での蚊などの虫を寄せつけないほか、芳香ですので臭いの気になる場所に焚くことによって“抑臭・薫香”としても使えます。商品名を「月桃香」といいます。

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月桃は琉球列島の山野に自生している高さ2~3㍍ほどになり、葉は濃い緑色で長さが40~70㌢㍍の有用植物です。

沖縄では昔から、畑や薮に入るとき月桃の葉を身体にこすりつけ、虫刺されを防いだり、衣類タンスに月桃の葉を入れ防虫剤の代用としてきました。また、鬼餅を生葉でくるみカビの発生を抑えるなど月桃の葉を生活に取り入れて活用してきました。

最近の研究では、月桃の葉に防虫、抗菌、殺菌、消臭などの作用をもつ成分が含まれていることが分かっています。

月桃香」は、月桃葉のほかに天然香木(桟香、沈香、白檀)やユーカリ、シークワーサーなどの精油を主原料にして作っていて、化学物質は含んでいませんので、ご安心してお使いいただけます。

月桃香」の香りや煙で、部屋に幕(スクリーン)を張り、蚊を追いやったり寄せつけないようにします。

香りも良いですので、来客時の“おもてなし香”としても、お使いいただけます。

1巻当たりの連続燃焼時間は、約200分になります。

月桃香 
                   20巻入り(2巻1組)  1,575円(税込み)                  

* 〔 月桃香 〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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