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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(19)~墨塗りの教科書と満蒙開拓義勇軍

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


敗戦に終わった昭和20(1945)年、ドラマでこれまで使っていた教科書を墨で消すシーンがでてきました。     

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国民学校では進駐軍の命で、教科書の中の国家主義や戦意を高揚につながる部分は墨を塗ったり、切り取ったり、糊で貼り合わせるなどをしました。

また、同年度の3学期から修身、国史、地理の授業が廃止されました。これらの教科書は生徒たちから集められ、一括して県地方事務所に送られ処分されたといいます。

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いま、安曇野市豊科郷土博物館で「安曇野の昭和の子ども~学ぶ・遊ぶ・暮らす」と題した夏季特別展が開かれています。このなかに、墨塗り教科書の現物が展示されています。中にはページの全行や挿絵なども墨で末梢されたものもあります。

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当時の子どもたちは、後に「『お国のために、鬼畜米英をやっつけるために、強い兵隊になるために大事な大事な教科書』と教えた教師が、今その教科書を『切り取れ、貼り合わせろ、塗りつぶせ』と命じているのです。子ども心に教師に対し不信感が芽生えるのは当然ですが『戦争に負けた。何でも今までと反対のことをするのが正しいのだ』と周りの大人たちが言い、私たちもそれに慣らされていきました」と述壊しています。

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昭和の初めから敗戦まで続いた軍国主義教育は終わったわけですが、民主主義教育といっても教師も何をどう教えればよいのか、戸惑いも大きかったようです。

陽子も、恩師で同僚の高橋夏子先生に悩みを吐露する場面もありましたね。夏子先生の「責任があるから、どんなに辛くても逃げない」という言葉に励まされ、陽子は再び教壇に立ちました。

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ともあれ、試行錯誤、迷いながらも民主主義教育はスタートしました。同特別展では、安曇野で使用された当時の教科書も展示されています。

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冬が近づくにつれ安曇野の教室は、しんしんと冷え込みが増します。ドラマの中の陽子の教室には登場しませんでしたが、当時の教室で暖を取るために使用された石炭ストーブも展示されています。

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もう一つ、陽子は放課後の教室で片隅にある教師用机を前にして、翌日の学習の準備をするなどしていました。

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当時の教師が使った教室内の教師用机も展示されています。

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ドラマには直接出てきませんでしたが、教科書、教師にまつわる話として教師の説得によって「満蒙開拓青少年義勇軍」として送りだされた多くの子どもたちがいました。

日本は昭和6(1931)年の満州事変後の翌年、満州国を樹立。国策として中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植移民を送り込む政策を推進しました。開拓移民は農業従事者を中心に、昭和11年から20年間のうちに500万人の日本人移民と100万戸の移民住居を建設する計画も打ち出しました。

陽子の初恋の人で長兄・春樹の学友であった川原功一も、昭和14(1939)年の正月、所帯を持つことを約した女性とともに「王道楽土」を求めて渡満しました。

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しかし、軍部の主導で太平洋戦争に突入し、戦線を急速に広げていきました。やがて戦局が悪化するにつれ、兵力増強で昭和17(1942)年以降は成人男性の満蒙入植が困難になりました。

このため「満蒙開拓青少年義勇軍」を組織することにして、15歳から19歳までの子どもたちがこれに代わりました。

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学校でも子どもたちを近い将来、満州へ送り出すための教育が積極的に行われました。ドラマのなかで、陽子も満州について教鞭を取る場面が映っていました。

特別展では、当時使用されていた満州についての副教材「まんしう」の現物を見ることができます。

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しかし、進んで応募するものが少なく、国策に沿う県の割り当てを学校に降ろし教師の強力な勧誘と説得に頼らざるを得なかったといいます。このため、義勇軍を送りだすには各学校長と信濃教育会でなる「青少年義勇軍創出対策委員会」が中心となり、各学校現場で強力な説得活動を行いました。

長野県の資料によると昭和13~20年までの間、安曇野市からは穂高の69人をはじめ200人近くの子どもたちが満州に送りだされました。

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信濃教育会は、昭和16年に松本市の小学校に県下の教員3,000人を集め青少年義勇軍を送りだすための具体的方法と、それを進める教育をどうするかの大会を開いています。

上の写真は、昭和17年に松本市の県営運動場で開催された青少年義勇軍壮行会の模様です。

移民で満州に渡った若者たちと結婚するための女性の訓練施設が、全国に先駆けて塩尻市広丘に開設(桔梗ヶ原女子拓務訓練所)されました。「大陸の花嫁」のキャッチフレーズを掲げ、開拓のための徹底した訓練をしたといいます。

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この写真の建物は義勇軍送出の中心的な役割を果たした信濃教育会の当時の本館で、平成2(1990)年に長野市から移築して安曇野市豊科高家(たきべ)に現存しています。国の登録有形文化財にもなっています。

信濃教育会は、戦後その誤りに気づき送出青少年の帰還促進の陳情や救護策に奔走したり、引き揚げ援護資金の募金に取り組みました。

しかし、終戦間際になってソ連が参戦し、満州に侵攻。開拓移民者は着の身着のまま逃避行に追われましたが多くの人が殺害されました。また、武装解除した関東軍の兵士とともに捕虜として捕えられシベリアに抑留された人たちもいました。

下の油絵は、厳寒のシベリアの地で強制労働と栄養失調で死亡した日本人捕虜の様子を描いたものです。「松本市歴史の里」のシベリア抑留展示コーナーに掲げられています。

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昭和25(1950)年にまとめた満州開拓移民と義勇軍で死亡した安曇野出身の人たちは、穂高の93人を含め300人を超えていることが分かっています。

この時の混乱によって、中国に取り残された「残留孤児」といわれる不幸な人々を数多く生み出しました。

 

*  白黒写真は、「松本・塩尻の昭和史」(郷土出版社)から撮りました。

* 安曇野市豊科郷土博物館の「安曇野の昭和の子ども~学ぶ・遊ぶ・暮らす」夏季特別展は、こちらです。

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