今年のガーデン公開は終了しました
ガーデンの草花の多くは開花を終え、夏眠の時季を迎えます。これに合わせた作業を行うためガーデンの無料公開を終了させていただきます。
公開期間はたくさんの方たちにご来場いただきまして、誠にありがとうございました。
今後、手入れを続けまして明春のオープンに合わせ、くつろげるガーデン造りに努めてまいります。しばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ガーデンの草花の多くは開花を終え、夏眠の時季を迎えます。これに合わせた作業を行うためガーデンの無料公開を終了させていただきます。
公開期間はたくさんの方たちにご来場いただきまして、誠にありがとうございました。
今後、手入れを続けまして明春のオープンに合わせ、くつろげるガーデン造りに努めてまいります。しばらくお待ちくださいますようお願い申し上げます。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
穂高有明を流れる高瀬川に乳房橋が架かっています。昭和9(1934)年に竣工され同38年に改修されています。鉄筋の入ったコンクリート橋で、見るからに堅固な造りで、橋の長さは56㍍、橋幅は5.5㍍です。
橋が架かったのは、明治41(1908)年で手すり付きの木橋だったということです。その後、2度改修されコンクリート橋になりました。
下の写真は、架け替えられた直後の昭和10年当時の乳房橋です。有明山の偉容も見えます。
突然ですが『聞け わだつみの声』という本をご存知ですか? 読んだことはありますか?
第二次世界大戦時の昭和18年、敗戦色が見え始めるなかで兵役免除の特権がなくなり、学徒出陣で戦地に赴き学業半ば、若くして死を覚悟した若者たちの遺書などを集めた書簡集です。
この『わだつみの声』の始めに収録されているのが、慶応大学生だった上原良司の遺稿です。
学徒出陣で陸軍特攻隊員として配属された上原良治は、突撃前に許された束の間の休暇を安曇野市穂高・有明耳塚の実家で過ごします。
そして「日本は敗れる。俺が戦争で死ぬのは愛する人達のためだ。戦死しても天国に行くから靖国神社にはいないよ」と、家族に言い残したといいます。
軍隊に戻るとき、見送る家族の姿が遠くになった乳房橋のたもとから、「さょうなら」と三度も繰り返し、別れを告げたといいます。開業医の実家から、乳房橋は300㍍ほどの距離です。
良司の母親は、それまでに聞いたことのない大きな声に「良司は死ぬ気でいるんだな。最後の別れに来たんだ」と悟ったといいます。
良司は、終戦3カ月前の5月11日の午前、命を受け鹿児島の知覧飛行場から出撃し、沖縄の北にいる敵艦隊に突撃して散華しました。22歳でした。
その一年後に小さな壺に入った良司の遺品が乳房橋を渡って、故郷に戻ったといいます。
悲しい別れを刻んだ高瀬川に架かる乳房橋です。
ニジマス釣りの解禁期間は、橋のすぐ近くで糸を垂らす釣り人の姿も見られます。良司も少年時代、この乳房橋から釣り糸を垂らしたことがあったのでしょうか。
乳房橋の先には、豊かな田園風景が広がります。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
昭和2(1927)年に明治以来の徴兵令を全面的に改め、「兵役法」が公布、施行されました。これによって、帝国臣民(日本国民)の全ての男子に兵役の義務を課すことになりました。
満20歳になると兵役に就くための徴兵検査(徴集)を受け、検査の結果5種類に振り分けられました。〔甲〕は兵士として適任、〔乙〕〔丙〕は甲に準じ、〔丁〕は不合格、〔戊〕が判断保留の区分でした。合格すると戦時に召集されました。
陽子の夫・丸山和成に召集令状が届いたシーンがありました。配属先は陸軍歩兵松本50連隊でした。臨時召集令状は、薄い赤い紙であったことから、俗に「赤紙」といわれました。
また「一銭五厘」ともいわれました。戦中の葉書の郵便料金が一銭五厘でしたが、出征して生死を懸けて戦場に向かう兵隊の人生が葉書1枚ほどの僅かな金額でしかないという意味が込められていました。
しかし、召集令状は葉書ではなく、役所から手渡しで通知されました。
村から、町から兵士が出征する時は、村を挙げて壮行したといいます。
当時、尋常小学校の生徒だった豊科の方が、後年、出征のときの模様を「兵隊送り」として綴っています。
「村から出征兵士が立つ時は、小学生も駅に見送りに行くことになっていました。(中略) これを行って帰ってくれば、(中略) 午前中の授業は済んでいました。お国のために戦いにゆく人といっても、大ていは見知らぬ大人が兵隊になって行くのですから、私たち子供は、ただ、機械的に万歳を三唱して帰ってくるのです。これをいやな事だといえば『敵に味方するのか』と非難されました。」
召集令状には、召集されるものの名前、配属される部隊名、部隊に出頭する日時が書かれていて、厳格にこれを守らなければなりませんでした。
召集出頭者が揃うと、やがて部隊ごとに戦線へ向かいますがどこへ行くかは兵士には全く知らされませんでした。
下の写真は、松本50連隊の部隊が軍用列車に乗って戦場へ向かうため、街中を通って駅へ行進する模様です。
終戦から66年経った現在、松本50連隊の兵営跡として唯一残る赤レンガ棟があります。松本市の信州大学の構内にあり、現在は医学部の備品庫として使用されています。当時は、軍馬に与える秣(まぐさ)を保存する舎に使っていたいうことです。
秣を保存するのに似つかわしくないほど立派な赤レンガ棟と思われますが、当時馬は軍にとっては貴重なものでした。
軍馬は階級の高い軍人が乗る乗馬、車両やソリを引く輓馬(ばんば)、荷を運ぶ駄馬(だば)に分けられ、馬主は常に目的に合わせた調教・訓練を怠らず軍からの徴発を受けた場合、いつでも応えられる義務を負いました。昭和14(1939)年には、そのための法令(軍馬資源保護法)も制定されています。
また、それ以前に北海道で軍馬に適した品種改良を繰り返し、釧路種が生みだされた経緯もあるほどです。
軍馬は大切にされ、「前線では人(兵士)よりも馬のほうが大事にされた」という兵士の証言もあるほどです。馬の飼葉庫としての赤レンガ棟もうなづけるところではないでしょうか。
昭和6(1931)年の満州事変以来、中国大陸への本格的な出兵を皮切りに国民にとって長く戦争が続いていました。
なかでも日本の真珠湾急襲によって始まった太平洋戦争は、日を追うごとに戦局は悪化し各戦線で敗退、昭和19年になると日本本土が米軍からの激しい爆撃を受けるほどに戦況は追いつめられていました。
そのために戦没者や民間の犠牲者も多くでました。
戦闘で死者が出た場合、初期のころは手厚く葬られ遺骨とともに、部隊が帰還した時に英霊として行進し市民も頭を下げて迎え入れたようです。同じ松本50連隊の兵営へ向かう時の写真です。
村葬として村人たちが総出で弔ったところもあったようです。
陽子が勤務していた国民学校から、代用教員で軍事教練を担当していた中村先生が出征しましたが、戦地から生還しませんでした。
陽子の兄で、須藤家の長男・春樹が軍医として乗っていた潜水艦が撃沈され戦没したと知らされたのは、次兄・茂樹が得た情報を書き記した一銭五厘の葉書によってでした。
戦死した場合の知らせは、通常「戦死公報」と呼ばれた役所からの通知によってもたらされました。
戦死公報は知事名で、戦死者の本籍、所属、階級、戦死地、日時などが記されていたといいます。
開戦初期から半ばころまでは、正確に記されていたようですが、戦局が悪化するにつれ遅くなっていきました。
南方戦線など最前線との連絡も途絶え、玉砕などで戦死者が急増しました。さらに戦災で戸籍簿が焼失するなどしたことなどが重なり、終戦を迎えても安否の確認ができないまま待たされる家族も少なくなかったようです。
和成の幼友達で、兄的な存在だった宮下建造の戦死公報が復員を待ちわびる妻・啓子のもとに届けられたのも、終戦から半年ほど経ってからでした。
この戦争による戦死者は、遺族にとって一家の大黒柱であったり有力な働き手であっただけに、残されたものとしては戦後も精神的、生活上も苦しい負担となって生きていかなければなりませんでした。
安曇野の各所に、戦没した出征兵士の慰霊碑を見ることができます。遺族の方たちが悲しくも、その働きを末永く顕彰しようと故郷の地に建立したものです。
海軍航空隊員で上等飛行兵曹だった次兄の茂樹は帰還しましたが、多くの戦友が亡くなり、自分が生存したという事実を悔いて…
しばらくは苦しみ抜いた生活を送っていました。
やはり復員した中に、タケオがいました。
郷里に復員すると陽子のいる学校へ向かい求婚しましたが、陽子はすでに既婚者でしたね。
タケオたち復員者は背嚢(はいのう=リュックサック)を背に帰郷しましたが、その中身は軍から支給された毛布、飯ごう、水筒などだったといいます。
そして待ちわびた夫・和成の復員。陽子は突然のことに腰を抜かしてしまいましたが…。久々の家族そろっての食事。食糧難で食事内容は貧しくても、家族団らんの時間が蘇ってきていました。
和成は復員して実家の前に立った時、「これからは(滅私報国というお国のためでなく)家族のために生きよう」と心に決めたということでした。
下の写真は、安曇野で撮られたものではありませんが、復員兵を迎える村の人たちの同じような姿が日本の各地で見られたに違いありません。
* 白黒写真は「写真記録 信州の昭和」(信濃毎日新聞社)などから撮ったものです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
雌雄異株の蔓性植物で、蔓の高さは7~12㍍になります。雌株に毬花(まりはな)と呼ばれる松かさに似た花をつけます。
雌花の苞葉の基部にあるホップ腺が、ビールの苦味や香りづけに利用されます。
苦味成分には、唾液や消化液の分泌促進作用があります。鎮静効果も強く、アルコール、催眠鎮静剤、鎮静性サプリメントなどとの併用には注意が必要です。
消化不良に対しては食前、不眠症には就寝一時間前に飲用します。
生のホップは、過度の傾眠状態の原因ともなりますので、乾燥したものを使用します。
◆ 和名 セイヨウ カラハナソウ
◆ 学名 Humulus lupulus
◆ 主要成分 メチルプテノール、キサントフモール、イソキサンフモール、8-プレニルナリンゲニン、ホップフラボノール
◆ 作用 鎮静作用、消化促進作用、食欲増進作用、エストロゲン様作用による更年期障害の改善作用、Ⅱ型糖尿病のインスリン感受性の改善作用、花粉症状の緩和作用
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
むかし、及木の伍社(ごしゃ)は、大きな森に囲まれた小さなお宮でした。お参りする人も少ないので、お宮の周りは草が茂り人が通るのもやっとでした。ですから、キツネがお宮の縁の下や、枯れた木のほら穴を巣にして棲み着くようになりました。
願いごとをしようと訪れた人が、キツネに化かされて方向をまちがえたり、お宮にお供え持っていった人が大入道に出会って腰を抜かしたとか、いろいろな噂がたちました。村人たちも、草を刈ったり巣を取り払ったりしましたが、すぐまた棲み着いてしまうのです。
元吉じいさんも、キツネの噂を聞くたびに「いまいましいキツネどもめ、なんとか追い払う方法はないものか」と考えている一人でした。ある日、「そうだ、すがれ(地蜂)とりの火薬の煙でキツネをいぶしてくれるか」と、思いつきました。そして、隣の勘助に相談しました。
「おもしれえぞ。やってみるじゃねえか」ということになり、さっそくたっぷり火薬を作り、お宮へやって来ました。床下をのぞくと、あちこちに穴がいくつもありました。二人は、紙に包んだ火薬に火をつけて、穴へ放り込みました。黄色い煙がもうもうと立ち上がり、キツネたちが穴からよろよろしながら出てきて、うずくまりました。
「棒でどやしゃげて二度と来ぬよう追っ払ってやりましょや」と、勘助がいったので、二人は草をかき分けて棒をさがしに行きました。
(近くにお稲荷さまがあり、キツネが神使として祀られています=及木・熊野社内の稲荷社)
しばらく行くと、大きな木の下にきれいな娘がいて、「棒をお探しかね」と聞きます。「ああ、そうだが。おめえさんは見かけねえひとだが、だれだい」と元吉じいさんがいうと、「わたしは、お宮に住むキツネの仲間です。もう、あそこには棲みませんので、どうか今度だけは許しとくれや」といいます。二人は、お宮に棲まないということを約束するならということで、許してやることにしました。
娘の姿をしたキツネは、「許していただいたお礼に、キツネ玉を差し上げるでね。これは、おらたちの大切な宝だじ」といって、ニワトリの卵くらいの黒い玉をくれました。
「見たこともねえ変な玉をもらったが、こりゃなんだや」と、勘助が玉をくるくる回すと、キラキラ光るではありませんか。「あれっ、この玉は光るわい。キツネ火の元かいなあ」といいながら、大事に家に持ち帰りました。
(伍社を裏側から見ると、大きな森の中に社があるのが分かります)
その夜から元吉じいさんも勘助も、訳のわからない病気にかかり、寝込んでしまいました。熱にうなされた元吉じいさんの夢の中に、伍社の神さまが現れ「キツネ火玉を、伍社のキツネに返しなさい」といいました。そのことを妻のタネに話すと「キツネのたたりだわ。あんな玉なんかもらってくるから、こんなことになっただ」と怒り、すぐ玉を持ってお宮に走っていき、投げ返しました。
キラキラと夕陽に輝いたキツネ玉は、草むらに落ちました。そして、両手を合わせて「どうかキツネさん、主人の病気を治しておくれ」と、お願いしました。
しばらくして、元吉じいさんも勘助も回復して元気になりました。二人は、油揚げをたくさん持って伍社のお宮に行き、そっとおいて帰ろうとすると後ろからあの娘の声がしました。
「お二人ともキツネ玉を返してくれてありがとうござんした。また、たんとの油揚げもごちそうさまです。このお礼にお盆の迎え火、送り火には、おらたちが立派なキツネ火を見せるでね」と、にっこり笑っていうとさっと姿が消えました。
(いま伍社の入り口の左右に、石積みされた上に、社を守護する狛犬がいます。キツネも怖くて、寄りつけないでしょう)
そして、八月十三日のお盆の夜、元吉じいさんと勘助が伍社の方を見ると点々と光るキツネ火が現れ、ゆらゆらと右に行ったり左に行ったり、一つに集まっては散り、一列に並んだかと思うと分かれ、光の踊りがしばらく続きました。送り火の夜も同じように、キツネ火を楽しむことができたということです。
* 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参考にしました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
敗戦に終わった昭和20(1945)年、ドラマでこれまで使っていた教科書を墨で消すシーンがでてきました。
国民学校では進駐軍の命で、教科書の中の国家主義や戦意を高揚につながる部分は墨を塗ったり、切り取ったり、糊で貼り合わせるなどをしました。
また、同年度の3学期から修身、国史、地理の授業が廃止されました。これらの教科書は生徒たちから集められ、一括して県地方事務所に送られ処分されたといいます。
いま、安曇野市豊科郷土博物館で「安曇野の昭和の子ども~学ぶ・遊ぶ・暮らす」と題した夏季特別展が開かれています。このなかに、墨塗り教科書の現物が展示されています。中にはページの全行や挿絵なども墨で末梢されたものもあります。
当時の子どもたちは、後に「『お国のために、鬼畜米英をやっつけるために、強い兵隊になるために大事な大事な教科書』と教えた教師が、今その教科書を『切り取れ、貼り合わせろ、塗りつぶせ』と命じているのです。子ども心に教師に対し不信感が芽生えるのは当然ですが『戦争に負けた。何でも今までと反対のことをするのが正しいのだ』と周りの大人たちが言い、私たちもそれに慣らされていきました」と述壊しています。
昭和の初めから敗戦まで続いた軍国主義教育は終わったわけですが、民主主義教育といっても教師も何をどう教えればよいのか、戸惑いも大きかったようです。
陽子も、恩師で同僚の高橋夏子先生に悩みを吐露する場面もありましたね。夏子先生の「責任があるから、どんなに辛くても逃げない」という言葉に励まされ、陽子は再び教壇に立ちました。
ともあれ、試行錯誤、迷いながらも民主主義教育はスタートしました。同特別展では、安曇野で使用された当時の教科書も展示されています。
冬が近づくにつれ安曇野の教室は、しんしんと冷え込みが増します。ドラマの中の陽子の教室には登場しませんでしたが、当時の教室で暖を取るために使用された石炭ストーブも展示されています。
もう一つ、陽子は放課後の教室で片隅にある教師用机を前にして、翌日の学習の準備をするなどしていました。
当時の教師が使った教室内の教師用机も展示されています。
ドラマには直接出てきませんでしたが、教科書、教師にまつわる話として教師の説得によって「満蒙開拓青少年義勇軍」として送りだされた多くの子どもたちがいました。
日本は昭和6(1931)年の満州事変後の翌年、満州国を樹立。国策として中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植移民を送り込む政策を推進しました。開拓移民は農業従事者を中心に、昭和11年から20年間のうちに500万人の日本人移民と100万戸の移民住居を建設する計画も打ち出しました。
陽子の初恋の人で長兄・春樹の学友であった川原功一も、昭和14(1939)年の正月、所帯を持つことを約した女性とともに「王道楽土」を求めて渡満しました。
しかし、軍部の主導で太平洋戦争に突入し、戦線を急速に広げていきました。やがて戦局が悪化するにつれ、兵力増強で昭和17(1942)年以降は成人男性の満蒙入植が困難になりました。
このため「満蒙開拓青少年義勇軍」を組織することにして、15歳から19歳までの子どもたちがこれに代わりました。
学校でも子どもたちを近い将来、満州へ送り出すための教育が積極的に行われました。ドラマのなかで、陽子も満州について教鞭を取る場面が映っていました。
特別展では、当時使用されていた満州についての副教材「まんしう」の現物を見ることができます。
しかし、進んで応募するものが少なく、国策に沿う県の割り当てを学校に降ろし教師の強力な勧誘と説得に頼らざるを得なかったといいます。このため、義勇軍を送りだすには各学校長と信濃教育会でなる「青少年義勇軍創出対策委員会」が中心となり、各学校現場で強力な説得活動を行いました。
長野県の資料によると昭和13~20年までの間、安曇野市からは穂高の69人をはじめ200人近くの子どもたちが満州に送りだされました。
信濃教育会は、昭和16年に松本市の小学校に県下の教員3,000人を集め青少年義勇軍を送りだすための具体的方法と、それを進める教育をどうするかの大会を開いています。
上の写真は、昭和17年に松本市の県営運動場で開催された青少年義勇軍壮行会の模様です。
移民で満州に渡った若者たちと結婚するための女性の訓練施設が、全国に先駆けて塩尻市広丘に開設(桔梗ヶ原女子拓務訓練所)されました。「大陸の花嫁」のキャッチフレーズを掲げ、開拓のための徹底した訓練をしたといいます。
この写真の建物は義勇軍送出の中心的な役割を果たした信濃教育会の当時の本館で、平成2(1990)年に長野市から移築して安曇野市豊科高家(たきべ)に現存しています。国の登録有形文化財にもなっています。
信濃教育会は、戦後その誤りに気づき送出青少年の帰還促進の陳情や救護策に奔走したり、引き揚げ援護資金の募金に取り組みました。
しかし、終戦間際になってソ連が参戦し、満州に侵攻。開拓移民者は着の身着のまま逃避行に追われましたが多くの人が殺害されました。また、武装解除した関東軍の兵士とともに捕虜として捕えられシベリアに抑留された人たちもいました。
下の油絵は、厳寒のシベリアの地で強制労働と栄養失調で死亡した日本人捕虜の様子を描いたものです。「松本市歴史の里」のシベリア抑留展示コーナーに掲げられています。
昭和25(1950)年にまとめた満州開拓移民と義勇軍で死亡した安曇野出身の人たちは、穂高の93人を含め300人を超えていることが分かっています。
この時の混乱によって、中国に取り残された「残留孤児」といわれる不幸な人々を数多く生み出しました。
* 白黒写真は、「松本・塩尻の昭和史」(郷土出版社)から撮りました。
* 安曇野市豊科郷土博物館の「安曇野の昭和の子ども~学ぶ・遊ぶ・暮らす」夏季特別展は、こちらです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
穂高の西側、すなわち最も北アルプスに近い南北に走っている通称・山麓線と呼ばれる道路があります。ここに「烏川(からすがわ)橋」があります。名前の通り、烏川に架かる橋です。
今、架かっている橋は昭和62(1987)年に竣工しています。延長は74㍍、幅員は8㍍です。
この烏川橋の両側に道祖神の親柱があり、安曇野に架かる橋であることを強く表現しています。
烏川の本流は蝶ヶ岳から流れ出る蝶沢が源流で、途中、常念岳からの支流と合流し、あちこちで急峻な流れが見られます。烏川の全長は16㌔㍍で、見るからに冷涼感が伝わってくる川と言っていいでしょう。
この烏川橋から上流域に足を運ぶと、延命水やお種の水といった沢の名水があります。
橋から烏川の流れを眺めると、額縁に入れてもいいような景観が望めます。雪が降った日は、さながら山水画を見るような風景に出会うことができます。
この橋の北側の袂に、太古の昔、湖に被われていた安曇野一帯の水を抜いて豊穣な地にしたという伝説が残る「泉 小太郎の石碑」があります。そして、その反対側に小さなかわいい双体道祖神が、路傍に祀られています。
烏川橋は、明治31(1898)年に現在の位置より500mほど上流に架けられたのが始まりのようです。当時は吊り橋でした。
古刹・満願寺がこの橋の北西側にあり、昔からお参りする人たちが近郷近在から多く訪れたといいますから、吊り橋の烏川橋を渡っていったことでしょう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
昭和19(1944)年半ばになると、ますます戦局は悪化しアメリカ軍のB-29による本土爆撃がいよいよ激しくなりました。連日のようにどこかの都市が空襲を受けました。
この年の6月、政府は帝都(東京)防衛や食糧事情の改善、あるいは児童の保護などの事情から、学童疎開を進める方針をだしました。まず地方に縁故先のあるものはそこへ、縁故先のないものには安全な地方へ集団疎開させました。
ドラマでは、小さな妹と二人で安曇野に縁故疎開してきた倉田杏子(左のセーラー服姿)が登場していました。陽子は、杏子の担任として受け持つようになりました。
親元を離れての生活はそれだけでも心細く寂しいものですが、見知らぬ土地での方言に戸惑ったり、すぐには友だちもできず子ども心にも不安は多かったようです。杏子も初めのうちはそうでしたね。
ドラマには出てきませんでしたが、昭和20(1945)年になって本格的な集団疎開が始まりました。安曇野にも都会の集団疎開する子どもたちが、数人の教師に引率され次々とやってきました。
穂高でみると、穂高国民学校では東京・太子堂国民学校(世田谷区)の学童54人、同・千寿第三国民学校(足立区)の51人を受け入れています。有明国民学校には太子堂国民学校の児童139人、西穂高国民学校には127人が、そして北穂高国民学校に千寿第三国民学校から49人が疎開転入しました。
同年の6月11、12日に到着、安曇野市穂高の青原寺や満願寺の本堂で合宿生活に入りました。
学童たちの作文によると、朝は本堂にある太鼓のドンドンという大きな音で起床、日直の号令でふとんを片付け、洗面、掃除、点呼、体操、朝食を取ったあとに登校したということです。
学校から帰るとサツマイモをおやつに食べ、宿題や勉強をした後に夕食をし、8時の消灯までの間が遊べる時間だったといいます。風呂は1日おきに入ったそうです。
学校での教育内容は戦士を作るという目的に合わせた鍛錬主義で、高学年になると柔・剣道、銃剣術、長刀などが採りいれられ、軍事教練も行われました。
しかし、食糧事情は極めて良くなく、空腹感にさいなまされました。子どもたちは食糧増産のため農家の手伝いをしたり、川原を開墾し、さつまいもなどを作ったりもしました。
そのほか、薬草を採取したり、繊維の替わりになるアカソを集めたり、神社へ戦勝祈念に行ったりしましたが、シラミ、ノミ、カなどにも悩まされた集団生活だったといいます。
児童たちは、終戦を安曇野で知り、敗戦の夏を寺で過ごしました。しかし、すぐには帰京できませんでした。東京は下町を中心に、大空襲で焼け野原同然になっているのに加え、深刻な食糧難に陥っていたからです。
ようやく寒くなり始めた11月7日になって、安曇野を離れ親元へ帰りました。有明国民学校では、5日に送別会を行い、芋、干し芋、柿、栗のほか米三斗を贈ったということです。
疎開児童たちが学んだ有明国民学校は、戦後の学制改革に伴い有明小学校と改称しました。その後、校舎の老朽化が目立ってきたことなどから当時4校あった小学校を2校に統合し、新設校(現穂高北小学校)を造ることになり、昭和45(1970)年閉校しました。
今は、学校跡地を示す木標と、少し離れたアカマツ林の中に校歌の歌詞を刻んだ石碑が建っています。
また、児童たちの疎開生活の場となった穂高有明の青原寺の本堂は、平成になって建て直ししたため往時の面影はなくなりましたが、建物の一部に残る透かし彫りは当時のもので僅かに当時を偲ばせてくれます。
そして、通りから本堂へ向かう杉木立の参道は当時のままで、児童が疎開先の国民学校へ毎日往来したことを偲ばせます。
青原寺の話では、疎開学童のお世話をした先代住職夫妻が生存時、太子堂国民学校の集団疎開を経験した人たちが青原寺で同窓会を開いたり、個人的にたびたび訪れてくる人たちもいたそうです。しかし、高齢になったこともあり、最近はめっきり少なくなってきたということです。
青原寺は、同寺に残る文書から天文年間(1530年代)に建立(こんりゅう)されたことが分かっている禅宗の古刹です。明治期になっての廃仏毀釈で一時廃寺となりましたが、その後再建されています。
* 『 連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(16)~炸裂した爆弾 』で、爆撃を受けた国民学校は有明国民学校の実話がモデルになっています。
* 白黒写真は「写真記録 信州の昭和」(信濃毎日新聞社)などから撮ったものです。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
口臭が気になる、口の中がよく荒れる、歯ぐきからよく出血する、冷たい飲み物が歯にしみる、あるいは歯の黄ばみや粘つきなどに口の中をスプレーするだけでこうしたトラブルが改善するウォーターがあります。商品名を「デンタルウォーター」といいます。
食後や口臭が気になるときなど1日数回繰り返して直接口腔内にスプレーします。また就寝前にもシューとスプレーしますと、口の中はいつも清潔に保たれ朝起きた時もさわやかな状態になります。
スプレーするだけで、気になる口臭や歯石、色素の沈着を防ぎ、歯茎を引きしめることなどから、日本歯科医師会でも推奨している健康商品です。
保存料などの化学合成物を一切含まず高分子加工された水と天然の微量成分でできていますので、赤ちゃんからお年寄りまで安心してお使いいただけます。
〔 デンタルウォーター 〕
100ml入り 各1,260円(税込み)
* 〔デンタルウォーター 〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。 詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
NHKの連続テレビ小説「おひさま」にたびたび登場してきた萱ぶき家と水車小屋、双体道祖神の風景、すっかりお馴染みになりましたね。
物語も後半に入っていますが放映が始まってから連日、このロケ地を訪れる人たちが増え、休日だけではなく平日もにぎわっているようです。
このロケ地周辺の畑に、いま夏ソバの花が開き訪れる人たちを喜ばせています。
このソバ畑、収録と観光の両面から急ぎ作られたもので、ボランティアの人々も参加して5月下旬に種蒔きされたということです。
収録といえば、先週7、8の両日、満開となったソバ畑で長女をともなった陽子、和成、道夫、徳子の丸山家の面々がドラマの安曇野ロケに臨みました。
昭和25年の設定で、陽子の実家へ向かう途中、ここで談笑しながら夢を語り合う場面の収録が行われたということです。この場面の放映は、8月25日の予定になっています。
収録を終えて、陽子役の井上真央さんは「ここは緑がきれいで風も気持ち良く、ソバの花が咲いていてとてもうれしい」と、感想を述べていました。
そういえば、このドラマのオープニングは「安曇野は今、白いソバの花が一面咲いていて、それはそれは美しい景色です」というラジオから流れてきた声から始まりました。
いま咲いているのは夏ソバの花ですが、どちらかといえば安曇野では味と香りで人気のある秋ソバのほうが多く植えられます。
ですから、9月の上・中旬にかけて「それはそれは美しい景色」が見られます。今回見られなくても、まだまだソバの花を愛でるチャンスはありますよ。
聞くところによると、このロケ地でも秋ソバの種を播いて訪れる人の目を再び喜ばせる計画になっているそうです。
* ソバ関連の過去記事が、こちらにあります。ご覧ください。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
北小倉の白山神社境内の左の奥に、岩に囲まれた小さな池があります。この池の水かさは、どんな長雨の時も日照りの時であっても一定していて、ほとんど変ったことがないそうです。
しかし、この池の水に石を投げ入れたり、かき回したり、水を汲み出したりすると、きまって雨が降ると言い伝えられています。
むかし、その年は春から何日も雨が降らず、日照りの毎日が続きました。せっかく植えた田んぼの稲や作物が茶色になって枯れはじめ、村の人たちは飲む水にも困っていました。
あちこちの神社やお寺にお参りして雨乞いをしましたが、いっこうにききめがなく人びとは空を見上げては、ため息をついていました。
もう一度、雨乞いの相談をするということで、村の衆が集まりました。「これまで、いろいろお願えしてきたが、もう最後の雨乞いをするしか方法はねえ。むかしから伝えられているお池をかき回してお願えするしかあるめえ」と、万蔵じいが声をしぼるようにしていいました。
すると、ひょうきん者と村の人たちが噂する重吉が「そりゃ、おもしれえ。そいつは、おらがやるわい」と、さっそく引き受けました。一日でも早くやろうということになり、二日後に最後の雨乞いをすることになりました。
その日が来ました。神主のおはらい、祝詞(のりと)と進み、いよいよ池をかき回す番になりました。重吉は神主から池をかき回す棒を受け取りました。 「南無、白山大権現、雨降らせたまえ」と大声をあげて、エイッ、エイッと池をかき混ぜはじめ、なんどもなんども繰り返しました。
無事に雨乞いは終わったのですが、一日経ち、二日経っても雨が降る気配は、いっこうにありません。「ありゃどうも、かき回し方が足りねえぞ」「重吉はひょうきん者だで、神さまもバカにして降らしてくれねえぞ」と、陰口さえささやかれ始めました。
これが重吉の耳にも入りました。「クソッ、おらのことバカにしやがって。見ておれ」と怒って家の手桶を持って白山社へ走って行きました。そして、池の水をどんどん汲み出し始めました。
「雨降れ、雨降れ、権現さま。それ降れ、それ降れ、権現さま」と掛け声をかけながら、汲み出します。水は境内を通って鳥居の方へと流れていきます。
(重吉が怒りにまかせて池から汲み出した水は、石灯籠の向こうから鳥居まで流れ出したということです。相当長い距離です)
なおも重吉は汲み出すのを続けましたが、そのうち「おかしな池だな、いくらけえ出しても、ちっとも減らねえぞ」と不思議がり、池をのぞき込んだのですが分かりません。色の水面は何もなかったかのように静かでした。
そのうち、重吉が池の水をかき出しているとの話を聞いて、村の人たちが駆けつけてきました。その中に万蔵じいもいました。「ふーむ。不思議な池だ。あれだけ、けえ出しても水がちっとも減っていねえ。重吉さやい、明日もやってくれるか」というと、重吉は「ああ、あしたも、あさっても、雨が降るまでやるわい」といって、さっさと家へ引きあげました。
(雨降り池の周りは、今も松などの大木が生い茂り、うっそうとしています)
ところが、その夜になって、ゴロゴロと耳をつんざく大きな音が響き、ピカーッ、ピカーッ 、ピカーッと稲妻がなんども光り、大粒の雨が突如落ちだし、やがてザーザーとすごい勢いで降りだしました。
重吉はあわてて外へ飛び出すと「雨だ、雨が降った!権現さま、ありがとうごぜえます、ありがとうごぜえます」と空に手を合わせ、なんどもお礼をいいました。
村の人たちは「やっぱり、池の言い伝えは本当だった」と話し合ったと言います。今もこの池は、松の木がうっそうと茂った中にあって、岩と岩とにはさまれた水面は青黒く光って浮き上がって見えるそうです。
* 『あづみ野 三郷の民話』(平林治康著)を参考にしました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
長い花茎にビロードのような葉をつけ、夏に紫色の雄しべをつけたピンクや白色の花を束生させます。
木の実のような種子や花や若い葉はサラダの材料になります。葉は野菜として利用し、根は茹でてから揚げて食べます。
葉を乾燥させると下のようになります。 マロウの仲間は鎮痛作用のある粘液質を含んでいますが、なかでもマーシュマロウがもっとも多く含みます。
粘液質は、葉、根ともに含みます。根には天然の糖分(多糖類)を含み、健康甘味食品やお菓子のマシュマロウにも使われました。(上が葉を、下は根を乾燥したものです)
大量に含む粘液質や多糖類が、上気道や消化管の粘膜を鎮静化させることから、上気道感染症、喘息、乾性咳、喉の痛みや胃潰瘍、十二指腸潰瘍、胃炎、クローン病などの消化管障害にも用います。
なお、糖類を多く含有するため、糖尿病患者には適用しません。
◆ 和名 ビロードアオイ
◆ 学名 Althaea officinalis
◆ 主要成分 粘液質、多糖類など
◆ 作用 皮膚・粘膜の保護(潤滑作用)、刺激緩和作用
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
安曇野女学校に通っていた頃、陽子たちは勤労奉仕でリンゴ農家に箱詰めの作業に出かけましたが、手押しのポンプで水を汲み上げている場面が映っていました。
飴屋の村上堂の店内で、陽子が疎遠の祖母と会って「母の秘密」を聞いていることを知った次兄の茂樹が店の裏側に回った時も汲み上げポンプがありました。
陽子の自宅にもありました。毎朝、ポンプで水を汲み上げ洗面していましたね。新米教師の陽子はこの時、海軍体操の復習に余念がありませんでした。
戦後、復員した茂樹が同じ自宅の庭で海軍関係の本や模型飛行機の処分をしたときも、しっかりポンプが映っていました。
そして、教え子たちと勤労奉仕に行った農家で作業している時、和成がお腹を空かした子どもたちに蕎麦まんじゅうを差し入れに来た場面にも、背後に井戸から汲み上げるポンプがありました。
上水道がまだ普及していなかった昭和のころは、こうした地下水を汲み上げるポンプが各家庭にありました。隣り近所で共同で設置していたところもありました。
ですから、ドラマにでてくるように普通の日常風景で見ることができたのです。
水の出口には、小砂利やゴミを取り除くため晒しなどの布を取り付けていたようです。
安曇野でもかつてはどこでも見ることができた汲み上げポンプも、今ではめったに目にすることができなくなりました。あっても現在使用されていないこともあって、粗大ごみ同然で置かれていたりします。
まれに現役で活躍しているポンプに出合うこともあります。農家の物置などの近くにあり、泥に汚れた作業道具類を洗ったりしているようです。
汲み上げポンプが普及する前は、井戸でした。穂高小岩嶽の民家の庭先に昔使われていた井戸が残っています。釣瓶(つるべ)こそついてはいませんが、汲みあげるための立派な滑車が付いています。
集落の中で、数戸単位で設置し共同で使ったもののようで生活道の近くにあります。雨水が入らぬように屋根を張ったり、井桁を組んで流水が中に落ちないようにしてあります。
共同設置の井戸は、水汲みや洗い物などで近隣の人たちが集まる場所でもあり、井戸端ではいろいろな話に花咲いたことでしょう。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野市の穂高と堀金地域の山間部に、県営の「烏川渓谷緑地」という広大な自然公園があります。大きく森林エリア(穂高側)と水辺エリア(堀金側)に分けられ、烏川が間を流れています。
この烏川に二本の橋が架かり、森林エリアと水辺エリアを結んでいてどちら側からも行き来ができます。
橋の上流部の橋は安曇野唯一の吊り橋で、渓谷橋と呼びます。
吊り橋ですので、走ったり足に力を入れるとユラユラと揺れます。
その中央部あたりから西側を見ると、晴れた日には北アルプス連山の一つ・蝶ヶ岳が望めます。毎年6月半ばには、蝶が舞う雪形が山頂部に現れます。
整備された都市公園とは違って、できるだけ人工的に手を入れるのを控え数多くの樹木、野草、昆虫、他の動物が自然な形で生息できるように維持されています。
ですから、サルなど野生動物へのエサやりや生ごみの投棄はもちろん、川で食器を洗ったりすることはできません。野生動物や水生生物や植物に被害を与え、生態系を崩すことにつながるからです。
でも、川遊びやコンロを使用する炊飯はできます。禁止事項だけ守れば、安曇野の自然のなかで楽しい一日を満喫することができます。
下流域にもう一つの橋「清流橋」があります。
橋げたの間から「元倉田堰取入口」の遺構を見ることができます。
急峻な流れの烏川は幾度となく氾濫を繰り返しましたが、この豊富な雪解け水を農業用水路として治水した先人たちの知恵と力の跡といえるでしょう。この種の遺構は、ほかにも園内に3ヵ所あります。
その元倉田堰遺構のすぐ裏手に人面岩があります。安曇野を潤す大切な水を見守っているかのような自然の造形です。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
ハーブスクエアでは現在、ガーデンを無料公開していますが、ハーブをはじめ今が見ごろの花々をご紹介しています。ガーデン散策時のご参考にしてください。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
環境市民ボランティア団体・nano花隊のナタネの収穫作業が梅雨の晴れ間をぬって、3日行われました。
作業が行われたのはハーブスクエアのガーデン約半分の敷地で、通称「菜の花スクエア」と呼んでいるところです。
昨年9月下旬に種を播き、当初は順調な生育状態を見せていたものの春先の天候不順で、その後は遅れ気味でしたが、5、6月の好天に恵まれ、この日の収穫にこぎつけました。
分枝の状態も良く、たくさんの実をつけています。作業効率を上げようとnano花隊が昨年購入したコンバイン、刈り込んだ茎と実を選別しながらナタネを30㌔袋に次々と入れていきます。
一枝の無駄なく刈り込むために、コンバインは木々の間にも入っていきます。
時どき、いっぱいになった収穫袋を交換し作業は順調に進み…
お手伝いに来た子どもたちも、その様子を見つめていたのですが、
予想以上に太く生長した茎がローラーにつまり、力を入れて抜き取るアクシデントもありました。
そんなこともありましたが、、刈り取りはその後もスムーズに進みました。
子どもたちは縁に乗って、飛ばされた刈り取った実があれば拾い集めて脱穀機に入れます。
汗だくになりながら埃に見舞われながら、根気よく刈り取り作業は続きました。
作業開始後4時間余り、いよいよ最後の一条を刈り取って無事この日の作業終了となりました。
お疲れ様でした。ざっと見積もって500㌔㌘ほどの収量となり、前年を大きく上回る量となりました。この後、乾燥させ搾油に回します。
今年9月中には純粋な搾りたての「nano花隊の安曇野産菜の花油」ができ上がり、ハーブスクエアなどで一般販売されます。どうぞ、お楽しみに!
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。
* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。
敗色濃い中で続く戦禍。昭和20年3月には東京大空襲があり、首都は壊滅的な被害を受けます。
「安曇野にもいつ敵機がやってくるのか分からないので、恐れることなく気を引きしめて過ごすように」と国民学校では児童に訓示します。
そして、米軍上陸、本土決戦に備え学校での竹槍教練や空襲に対する避難訓練も毎日のように組まれていた様子が映し出されていました。
昭和20年5月19日、陽子が勤務する有明山国民学校の上空に一機の爆撃機B-29が突然現れ、投弾します。空襲警報もでていない間隙を襲った“不意打ち”でした。
爆弾は校舎から離れた南側1㌔㍍ほどの畑に落ち、炸裂します。突然の轟音と閃光、すさまじい爆風で授業中の教室の窓カ゛ラスが一挙に破れ破片が散乱しました。
児童も陽子もとっさのことでしたが、防空頭巾を被り机の下にもぐりこみ事なきを得ました。
ドラマにはでてきませんでしたが、爆撃機は穂高の街中にも、5発の爆弾を落として立ち去ります。
ドラマ「おひさま」は岡田恵和さんによるオリジナルフィクションですが、史実も織り交ぜながら脚本が構成されています。
実際にこの日、5月15日に穂高有明の国民学校近くの農地に爆弾12発が落とされ、爆風により畑作業をしていた二人が命を絶たれ、破片や爆風で重軽傷者多数がでています。
穂高市街地に落とされた爆弾では幸いにも死者は出ませんでしたが、負傷者多数と人家が大きな破損を受けています。
犠牲者が出た爆弾投下の跡に、いま一本の杉の木と慰霊碑が建っています。碑には「昭和廿年五月十九日 遭難記念」と刻まれています。
軍による報道統制が厳しかった時代ですから、爆撃を受けたことも死者がでたことも新聞やラジオで知らされませんでしたが、当時の安曇野では誰もが知っていて不安に強く怯えていたことが推察できます。
戦局が悪化し、昭和19年、20年と日本の都市は連日、空襲警報が鳴り響きました。
第二次世界大戦中にアメリカは、日本列島攻撃専用に戦略爆撃機B-29を開発・製造しました。新型気鋭機B-29は日本本土の主要54都市に無差別爆撃を繰り返し、15,000回に及んだといいます。
穂高町でいえば、当時は地方都市でもない人家もまばらな片田舎の畑や街中に爆弾が落とされたのか、それは衝撃であったとともに長い間、解けなかった謎でもあったようです。
松本歩兵50連隊の穂高・有明演習場の兵士宿舎となった有明国民学校(下の写真=2枚上の写真の右手の高い建物に有明国民学校がありました)や、穂高国民学校があった街中が狙われたのではないかという説があったようです。(参照記事がこちらにあります)
しかし、編隊を組んだ爆撃機の来襲ではなくB-29一機が飛んで来たということは、それぞれの国民学校を狙って投弾したというより、上空偵察に来た機がその任を終えて基地に戻る時、重量を軽減するために搭載してきた爆弾を落下させ、たまたま畑地と街中に墜ちたのではないかという見方が有力のようです。
この後、有明国民学校では校地内に防空壕を掘り、警戒警報発令のたびに児童を壕に退避させたということです。
記録では、戦中、長野県下で連合国側から爆撃を受けたのは、上田市(昭和19年12月9日)、穂高町と続き松本市(同20年3月2日)、降伏直前の8月13日には長野市が終日、艦載機に空襲されました。戦後発表された政府の資料では、空襲・爆撃による長野県内の民間人の死者は40人に及んでいます。
この年の8月、アメリカはB-29に搭載した原爆を広島、長崎に落とし、多大な人々の命が無残にも奪われました。そして、15日になって日本はようやく連合国側のポツダム宣言を無条件で受け入れ降伏し、満州事変以来15年間にわたる長く続いた戦争を敗戦という形で終えました。
丸山家にも近隣の人たちが集まり、天皇の終戦の詔勅を全国民に放送で告げる「玉音放送」を聞く場面が映っていました。
* 有明国民学校の写真は「穂高町誌」から転用しました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
むかし、荻原の西に池ノ戸というところがあって、そこにはどんなに日照りが続いても、決して枯れない池がありました。いつも満々と水をたたえて、底はとても深くて見えないほどです。
その池に、いつのころからか大蛇が棲みつくようになり、村の人たちは「大蛇が池」と呼んで、だれも近寄りませんでした。
ある日のこと、金蔵は子馬を連れて池の近くまで、草刈りにやって来ました。「みんな、おっかながって近づかねえが、それほどのこたあるめえ。池のそばだで、いい草がたあんとあるでな」と、馬を池の近くの木につなぎ、草刈りを始めました。
ザクザクザクと、いい具合に草を刈っていると、「ヒヒーン ヒヒーン」と馬がけたたましく鳴きました。驚いて馬のいる方へ走って行きました。
すると、今まで見たこともないような大蛇が、馬の尻尾をくわえて池の中に引きずり込もうとしているではありませんか。「アオ、走れ。早く!早く!」と金蔵は大声を上げました。
子馬のアオは、尻尾を引きちぎられながらも、あわやのところで逃げ出すことができました。後にはザブーンという大きな音がして、池の水は激しく波立っていました。
刈った草もそのままに、金蔵はアオを連れて逃げ帰りました。その話を聞いた村人たちは、なんとかして池から大蛇を追いだす方法はないものかと話し合いましたが、これといったいい案も浮かんできません。この噂が泉福寺の和尚さんの耳に入りました。
「どれ、ものは試しだ。一つやってみるか」と、和尚は池の方へ向かいました。やがて池の端まで来ると、この当たりでは見かけない美しい娘が、洗濯しているところに出会いました。
「あら、和尚さま。どちらへお出かけですか?」と、きれいな声で話しかけてきました。「わしか、わしはお前に用があってきたのじゃ。お前は村の衆を怖がらせたり、悪さばかりしておる。この池から出ていってもらおうと思ってやって来たのじゃ」。
そう言ったときです。娘の顔が黒くゆがんだと思ったとたん、たちまち口の裂けた恐ろしい大蛇に変身しました。「正体、現したな」と、和尚はお経を唱え始め、その声は辺りに響き渡りました。
すると、大蛇は苦しそうにのたうちまわって池の中に沈んでいきました。和尚は村の人たちを呼んできていいました。「さあ、みんなで池を切り崩すのじゃ。そして、水を払えばあの化け物を追いだすことができる」
村の人たちは総出で、池の土手を掘って水を流しました。しかし、あと少しのところで、なかなか水がはけません。辺りは、すでに暗くなっていました。「後は、わしに任せなさい。明朝、また来てください」と和尚はいいます。
みんなを家に戻すと、和尚は寺に戻って「南無阿弥陀仏」と書かれた札を持って、再び池に来ました。そして、その札を、お経を唱えながら池の水の溜まったところへ投げ入れました。
(村人たちが恐れていた大蛇を鎮めた和尚さんが住んでいた泉福寺の本堂)
その夜、ズルズルという地面をこするような不気味な音が村中に響き、地震のように大地がグラングランと揺れ、だれもが怖さのため、一晩中震えていました。翌朝、静かになったので、村の人たちは池の周りに集まりだしました。すると、どうしてもはけなかった水がすっかりなくなっていました。
「ああ、よかった。昨夜の騒ぎは、あの大蛇が出ていっただね。おら、生きた心地がしなかっただ」。そして、みんなで池を元どおりにして村へ水を引くことにして溝を掘りました。
ところが溜まった水がなかなか流れません。掘った溝がいつの間にか、埋まってしまうのです。じゃあというわけで、溜まった水でレンコンを作ってみましたが、泥臭くてとても食べられません。
「こりゃあせえ、どう考えてもあの大蛇を追いだした祟りじゃねえかい。どうずら、ひとつ祠でも建てて供養してみちゃ」と、村の人たちは池のそばに祠を建てました。今では雑草が生い茂り、池の面影も分からなくなり、すっかり荒れ果てていますが、どこからか水が湧き出て一面、湿地帯になっているそうです。
* 『あづみ野 明科の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント