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2011年6月

安曇野の川に架かる橋(3)~中房へと続く大王橋

穂高・宮城から燕岳への登山口となる中房へ登る途中に大王橋があります。大王とは、安曇野の伝説に残る八面大王を指し、その昔、この一帯を勢力下に置いていたと伝承されています。

近くに、大王が棲んでいたとされる「魏石鬼の岩窟(ぎしきのいわや)」があります。

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大正11(1922)年ころまでは木橋で、鉄索を利用した吊り橋でした。中房温泉への湯治や有明山に参詣する信仰者が、この吊り橋を渡ったということです。

現在の大王橋は、昭和30(1955)年に竣工しています。橋は山中にあり、周辺は緑濃く橋の下を流れる中房川も澄んでいます。

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しかし、この中房川、もう少し上流に遡ると白濁しているそうです。というのも、湯量の豊富な中房温泉の源泉があり、この温泉湯が川に入り込んでいるからといいます。

昔は、中房の川原を掘ると温泉が湧き出すといわれたこともあったようです。

源泉周辺から数キロ下ってくる途中で、いくつかの支流と一緒になり、温泉の成分も薄まり、澄んだ流れになってイワナも生息しています。渓流釣りをする人から聞いた話です。

いま穂高温泉郷の源泉となる中房温泉から引湯するパイプラインが、道沿いに通っています。

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燕岳、大天井岳、東天井岳などの沢水を集めた中房川は、穂高の街中に入ってから乳川(ちがわ)と合流し、穂高川と名前を変えます。

大王橋は、中央部が盛り上がった膨らみがあり、欄干は半円の幾何学模様が並んでいます。単純なデザインが周囲の景色に溶け込んでいて、好感が持てるクラシカルな橋です。

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この大王橋の上流部に名前のないウォーキングコースに架かる吊り橋があります。森の香りを吸い込み、沢の音を聞きながら歩くことができます。

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橋の上からの眺めは、涼味満点です。

* 八面大王にまつわる伝説があります。こちらと、こちらです。ご覧ください。

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(15)~陽子が立った台所

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


陽子は尋常小学校に通っていたころ、母を亡くします。ドラマでは、その後、家族の食事を一手に引き受け、父親や二人の兄たちの弁当まで作る頑張りやさんとして描いています。

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ですから日々の食事はもちろん、次兄が予科練の試験に臨む日はカツ丼を、正月にはおせち料理を、さらには信州には欠かせない野沢菜なども食卓に上りますので野沢菜も漬けたのでしょうか。     

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自らの勉学にも励まなければならないわけですので、朝食から昼の弁当、帰宅してからの夕食の支度と、まさに主婦に劣らぬ奮闘ぶりです。

それでいて愚痴をこぼすわけでも不満を述べることもしません。「太陽の陽子ですから」と明るく振る舞うのですから、驚きです。    

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そんな陽子が立った台所を彷彿とさせるところがあります。国営あづみの公園内にある「あづみの学校」に、調理などで煮炊きをする竃(かまど)が再現されています。

上の3枚のテレビ画面から撮った写真に、大きな蓋(ふた)をした釜が映っていますが、釜が乗っている竃を正面から見ると、このような具合です。

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竃は土で作られたものが多いのですが、石やセメントで造られるものもありました。

今ではほとんど見ることはできなくなりましたが、昭和20年代頃までは電気やガスの器具が普及していなかったこともあり各家庭に普通にありました。この竃に薪や炭を燃やし、ご飯を炊いたり汁物や煮物などの調理に欠かせない設備でした。

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陽子が嫁いだ蕎麦店「丸庵」の調理場にも竃が設置されていました。

嫁いだ日、陽子は和成から竃を含めた調理場を案内されましたね。

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調理の準備ができれば居間で、囲炉裏を使います。上から垂れ下がっている自在鉤(じざいかぎ)に鍋や鉄びんを吊るし保温などに使用しました。

陽子がお椀に盛っている味噌汁は、湯気が立っていておいしそうですね。 

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少し古い作りですが、穂高有明の国重要文化財に指定されている曽根原家住宅に囲炉裏と自在鉤を見ることができます。

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穂高郷土博物館には、昭和のころの囲炉裏風景が再現されています。

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自在鉤も展示されています  

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自在鉤で火からの高さを変えて、湯沸かしや調理の火加減を調整します。郷土料理店や居酒屋さんでも囲炉裏や自在鉤を設置しているところがありますね。

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そういえば、陽子の父は頑張りやさんの陽子に女学校時代に履いていたくたびれた靴に変えて、新調した靴を師範学校へ向かう時プレゼントしましたね。         

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一緒に暮らしていた兄の茂樹は予科練へ、やがて陽子は嫁ぎ、残された父・良一が一人暮らしていた須藤家。その良一も徴用され名古屋へ赴きます。

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誰もいなくなった須藤家の台所と居間。戦争で家族が離れ離れに暮らすことを余儀なくされた家庭の時代が描かれていました。

* ドラマの撮影用に造られた須藤家のスタジオセットが、こちらで見られます。

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洗濯ものに移り香を残すリネンウォーター

じっとりと汗ばみ、日常生活周辺でいろいろな臭いが気になる季節。リネンウォーターを洗濯時やアイロン掛けするときに使って、ほのかに香るやさしい天然の香りでリフレッシュしてみてはいかがでしょうか。

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リネンウォーターは、エッセンシャルオイル(精油)を抽出した後に残る芳香が凝縮された蒸留水のことです。ですから成分は精製水と微量のエッセンシャルオイルのみで、100%天然の贈り物です。

このリネンウォーターを洗濯機のすすぎ時に50cc程度を浴槽内に入れます。洗濯が終わった時に、洗いあがったものにやさしい天然の香りが移っています。

また、シャツやブラウスなどにアイロンを掛けるときにリネンウォーターをスプレーしたりスチーム用の水の代わりに薄めずに使用すると、やはり天然の香りが移り香として残ります。

天然の素材ですので、直接肌に触れても安心です。もちろん、ミストスプレーでリビングや車のクッションやカーテンなどに吹きかけるなどしてファブリック用ルームフレッシュナーとして使うこともできます。

リネンウォーターは、ローズ、ラベンダー、ライムブロッサム(リンデン)、オレンジフラワー(ネロリ)、ジャスミンの5種類です。

 

    〔 リネンウォーター 
                     各500ml入り  各1,260円(税込み)

                     

* 〔 リネンウォーター  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(14)~街角の看板

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


陽子たちは女学校時代の行き帰りに安曇野の商店街を通りました。その背景に商店や商品の看板が出てきました。

公共放送NHKのドラマですから、固有名詞はすべて架空の商店や商品名の看板になっていると思ったのですが…。

まず、画面左上の看板に注目してください。

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下の写真とそっくりではありませんか? 店名も書体も、右隅に描かれている女性のイラストの配置も。

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この写真は昭和16(1941)年に撮られたこの商店の家族写真です。場所は安曇野市の隣りの池田町です。日用雑貨品から化粧品、文具類などを販売していた「蔦清商店」が実在していたのですね。今はありませんが…。

街角の時代考証、看板一つにもリアルに行こうという制作スタッフの意気込みが伝わってくるのではないでしょうか。 

安曇野市内で今も、明らかに昭和の時代のものと分かる看板を目にすることができます。ただ現役でがんばっているものもあれば、店をたたんでしまい、かつて商売を営んでいたことをうかがわせる看板もあります。

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「昭和も遠くなりにけり」という言葉も聞かれる昨今ですが、昭和という時代の街角の名残りが偲ばれて来るのではないでしょうか。

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ドラマにでてきた陽子が嫁いだ蕎麦店「丸庵」の看板です。

 

陽子たちは女学校の帰り道、親友とよく街中の「村上堂」という飴屋に立ち寄りました。

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その村上堂の「あめ」看板をよく見て下さい。これは…

下の写真の右側にある松本市の新橋飴店内にあるマスコットをヒントに制作しています。

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陽子たちは、村上堂に入るといつも指定席の奥まった席で甘味を楽しんでいました。よく見ると、奥の塀にビールの看板が掛かっているのが見えます。琺瑯(ほうろう)製の看板です。

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かつては街角の電信柱や家屋の塀、物置小屋などに見られた琺瑯看板も、めっきり減ってきました。それでもよく探すと、古い商店や街の角地などで見ることができます。

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こちらは日本酒の琺瑯看板です。安曇野と周辺は清澄な水と米に恵まれていることから酒蔵もあり、地酒の清酒看板が多く見られます。

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酒といえば、タバコでしょうか。タバコの看板もよく出てきました。         

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タバコを売る店もめっきり少なくなりました。コンビニやスーパー、あるいは自販機で販売するようになったことや健康問題から喫煙人口が大きく減少したことからタバコ専門の小売店もなかなか見られなくなりました。

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ですから、タバコ看板もしまい込まれ、「向こう横丁のタバコ屋の看板娘」の姿も今は見られなくなりました。

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安曇野は農業も盛んですので、農機具や肥・飼料の琺瑯看板も残っていたりします。

 

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陽子が父と松本の街を散策した時も、後ろの板塀に学生服の琺瑯看板が映っていました。陽子の兄たちが着ていた学生服は、丸石だったのでしょうか、それとも忠臣学生服?

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そして陽子が女学校へ通う時、乗っていた自転車は「宮田の自転車」?

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「昭和」の匂いが漂う看板も街角の隅に今も探し出すことができます。

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メディカルハーブ-13    ミルクシスル

草丈1.5㍍ほどにもなるアザミの種です。紫色の花をつけ、光沢のある緑色の浅裂した葉に白い斑が入るのが特徴です。

この白い斑模様は、聖母マリアがキリストに乳を含ませていた時、溢れ出た母乳がこのアザミの葉についてできたとエピソードがあり、「マリアアザミ」の別名もあります。

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茎と葉には鋭い棘と稜がありますが、花盤(うてな)はアーティチョークと同じように食べられます。

頭花部分は、秋になると熟してたくさんの種実をつけます。

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鎮痛作用のある種実に含まれるシリマリンに、テングタケなどの毒素から肝臓を守る働きがあることが分かり、慢性の肝炎、肝硬変、カドミウム中毒、アルコールや麻薬などによる肝臓の損傷を軽減するために利用されるようになりました。

母乳の不足、乗り物酔い、心臓病の予防にも用いられます。

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◆ 和名     オオアザミ

◆ 学名     Silybum marianum   

◆ 主要成分  シリマリン

◆ 作用     胆汁分泌促進作用、肝細胞保護作用、肝細胞再生促進作用、鎮痛作用、 母乳分泌作用





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今咲いているガーデンの花々(3)

ハーブスクエアでは現在、ガーデンを無料公開していますが、ハーブをはじめ今が見ごろの花々をご紹介しています。ガーデン散策時のご参考にしてください。

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           Photo                         ヤマボウシ

           004                       コモンマロウ

           008                           アルカネット

           065_2                      フォーゲットミーノット

           014                            スカビオサ

           015                             トードフラックス

           017                         ドラセコファルム

           022                       コレオプシス

           039                     アキレギア(セイヨウオダマキ)

           079                       レッドバレリアン

           024                       レディースマントル

           025                              ガウラ

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           044                  スティンギングネトル(セイヨウイラクサ)

           042                      バイパースビューグロス

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           070                      ヤロウ(アキレア)

           027                        ダイヤーズカモミール

           050                         クックテール

           028                            ウォード

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安曇野に架かる橋(2)~お経が書かれた微妙橋

穂高・牧の山間部に満願寺という古刹があり、近くを流れる烏川の支流に「微妙橋」、通称「お経橋」が架かっています。

初めの橋は1500年代に架けられたという古文書があります。現在のものは明治39(1906)年に架け替えられた新しい橋ということですが、悠に100年を超えます。

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切妻造りの屋根付き、太鼓橋です。橋長15m、橋幅3.6mあります。

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なぜ「お経橋」の別名があるかといえば、橋板の裏面に梵字の経文が書かれていることによります。その経文も長い年月を経る中で褪せてきています。

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橋のたもとには六地蔵が立っていて、この地蔵尊をお参りしてからお経橋を渡るのがよいとされます。

極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるといわれ、地蔵尊が地獄での責め苦から救済してくれるのだといいます。

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橋の下を流れる川(烏川の支流)を三途の川に見たて、お経の書かれている橋を渡ると極楽浄土に導かれるとして、昔は各地から参拝に訪れる善男善女がひきりなしだったということです。

弥次さん、喜多さんが登場する滑稽本「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の作者・十辺舎一九も満願寺を訪れているという記録がありますので、一九も架け替え前のお経橋を渡っているかもしれません。

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室山池の清楚な蓮華が見ごろです

  三郷室山の室山池のハスが見ごろを迎えています。         

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開花しているハスの花は、三色楽しめます。上のピンクと下の濃い赤色と、…

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数は少ないのですが、純白色です。梅雨空のもと、鮮やかな色を放っています。

「蓮は泥より出でて泥に染まらず」というなじみ深い中国の成句がありますが、ハスの花を見るとこの花の清らかさにうっとりしてしまいますね。

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ハスの花を蓮華と呼び、根は食用にする蓮根です。ハス全体を水芙蓉(すいふよう)と呼んだりしますし、呼び名の多い植物です。

池には鯉もたくさん棲んでいて、ときどき蓮華の合間から姿を現してきます。

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ハスの花は、朝早く開花し昼には閉じるといいます。清楚感漂う花を見るなら、午前中が良いかもしれません。          

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室山池は深い山間の中にあり、周辺も閑静です。野鳥のさえずりを聞きながら、池周辺の散策が楽しめます。

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* 室山池にまつわる昔話があります。こちらをクリックしてください。

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安曇野に架かる橋(1)~プロローグ 

安曇野の西側にそびえる北アルプスの峰々の冠雪が解けだし、岩を伝って流れ出たり、地中に沁み込み地下水脈となって流れてます。

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途中、ところどころでせせらぎとなって地表に顔を出したり、また姿を消して地下へと潜み、次に地上に現れるときはさらに勢いを増した流れとなってきます。

数多くの源流から流れ出た澄んだ水の流れは、やがて急峻な流れとなって山を下り、幾筋もの川となって流れてきます。

里へ向かう中で合流し、さらにその先で合流を繰り返し大きな河川となります。

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安曇野の平地部に来て高瀬川、穂高川、犀川が一つの流れになり、新たに犀川となります(下の写真)。

実は犀川の流れは、これより前に松本と安曇野の市境近くで、梓川、奈良井川、犀川の三川が合流しています。

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安曇野を出てからもさらに幾つもの河川と合流し、やがて千曲川と名を変え、新潟県に入ってから日本海へと向かって流れ信濃川と呼ばれるようになります。

すなわち、信濃の国(長野県)に源を発し縦断する形で流れてくる川という意味です。その流れは367㌔㍍に及び、日本でもっとも長い河川になります。

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水は人の営みに欠かせないものですが、安曇野では古くから新田の開墾や用水・堰の開削を行ない、広大で豊かな田園から多くの農作物を生産してきました。

また、伏流水は平地部に来てから豊富な湧水となります。こんこんと湧き出る水は大正時代からわさびの栽培に用いられ、その排水は虹鱒養殖に使うなど、水を循環利用してきました。

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安曇野の中でも穂高、明科地域は、地形的にも多くの河川が縦横に流れています。この地域に住む人々にとって、生活物資の行き来や人の往来のために、川に橋を架けることによる便宜は、生活向上のための計り知れない強い願いでした。

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安曇野に架かっている橋と、その下を流れるいくつかの川を取り上げ、橋の変遷についてご紹介します。

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塔ノ原のタヌキ~明科・塔ノ原

ある年の秋の夕暮れ、塔ノ原の庄屋の戸口をたたく人がいました。庄屋の主人は病で伏せていましたので、かみさんが戸を開けると、紫の衣を着て白いひげをはやした坊さんが立っていました。

「わたしは、鎌倉の建長寺の和尚です。善光寺へ行くのですが、暗くなってしまいましたので、一夜をお借りしたいのですが」と、深々と礼をしました。落ち着いた口調、品のある物腰から、かみさんは位の高い坊さまだと思い、一番いい部屋に通しました。

             071(高僧の身なりをした旅の僧は、善光寺へ行くのだといったそうです。……国宝・善光寺は、連日、善男善女の参詣が後を絶ちません)

そして、一番いい酒を買いに使用人を走らせ、近所の人たちの手を借りて夕飯の支度に取りかかりました。やがて、たくさんのご馳走が運ばれてきました。生の鮭、山鳥の肉、マツタケなどお膳いっぱいに出てきました。それに旅の疲れが取れるように、お酒までついてきました。

      084_2(旅の疲れを取るために、おかみさんが用意した一番いい酒を、“建長寺の和尚”は盃でいただいたのでしょうか=明科歴史民俗資料館蔵)

「たいへんお待たせしました。山の中なので、何のもてなしもできませんが、お召し上がりください」と、かみさんが言うと「食事は仏とともにいただきますので、すまないが皆さんはお引き取りを」と、澄んだ声で坊さんは言いました。       

しばらくして、使用人が「おかみさん、たいへんです。お坊さんの姿が見えません」と、駆けこんできました。かみさんは驚いて、坊さんのいた部屋へ走りました。そして、またびっくりしました。あれだけのご馳走を、一つ残らず、たいらげてありました。家中、坊さんを探して大騒ぎになりました。       

「おりました。池のそばで、お休みになっておられました」と、やっと見つけた使用人が、かみさんに知らせにきました。使用人に起こされ、部屋に戻った坊さんは「若い修業のころ、よく野宿しましたので、ついそんなクセがでてしまいまして…」と、気恥かしそうな面持ちでいいました。

     085(姿が見えなくなったお坊さんを探すために、こうした弓張提灯なども使われたことでしょう=明科歴史民俗資料館蔵)

かみさんが「お疲れのところ、おそれいりますが、家宝にしたいので何か書を残していただけませんでしょうか」と筆と硯(すずり)を持ってきました。「わかりました。仏と一緒に書きたいので、部屋をでていてくだされ。できましたらお呼びします」というので、かみさんは自分の部屋に引き返しました。       

やがて、坊さんの「できましたぞ」という声がしましたので、坊さんの部屋へ行くと「これは、わたしがこの家を後にしてから三日目に開けなさい」と、坊さんは言って書をかみさんに渡しました。

           154(坊さんに書を書いてもらうために、かみさんが用意した硯箱はこんなものだったでしょうか)

翌日、朝食を終えて旅支度を整えた坊さんは、「この薬は万薬です。病のご主人に飲ませて下さい。じき治ります」といって、大勢の人に見送られ、北へ向かって旅立って行きました。       

坊さんが発ってから、三日目のことです。かみさんの耳に、遠く離れた峠の手前の一軒家の近くで、紫の衣を着た大きなタヌキが死んでいたという話が聞こえてきました。

かみさんは、そのタヌキが身にまとっていた衣や持ち物が、あの坊さんとそっくりだったので驚き、すぐに使用人を一軒家へ行かせ、話を聞いてくるようにいいました。

     109              (剥製保存されているタヌキの標本=大町山岳博物館蔵)  

遅くなって戻った使用人の話はこうでした。夜になって飼っている犬があまりに吠えるので、外に出てみると、犬が柿の木の上の方を見て、盛んに吠えていました。月明かりの中で見えたのは、柿の木にしがみついている坊さんの姿でした。

犬を叱りつけて吠えるのを止めようとしましたが、まもなくドサッという大きな音とともに坊さんが木から落ちてきました。びっくりして坊さんのもとに駆けつけると、紫の衣をまとった大きなタヌキが死んでいました。

大タヌキは、旅の途中の坊さんをだまして衣を奪い、自ら坊さんになりすまし多くの人たちをあざむいたということでした。

話を聞いた主人とかみさんは、坊さんに化けたタヌキが残していった書を見ることにしました。封を開けると、へたくそな字が書いてありました。「こりゃあ、なんだ。タヌキは自分の尻尾で書いたな。字になってないな。ただの線だわい」。そして、万薬だといって渡された薬の残りをよく見てみると、ただの小麦の粉でした。   

 

         * 『 明科の伝説 岩穴をほった竜 』(降幡徳雄著)を参考にしました。      

 

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連ドラ「おひさま」に出てきた安曇野の風景 (13)~陽子が通った農道

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


ドラマで昭和14(1939)年の元旦、須藤家を訪れた川原がタエという女性を連れ立ってきて、不幸な境遇に育ったタエと結婚すると告げられた陽子が、突然のことに愕然とする場面がありました。

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陽子は川原の言葉に初恋の終わりを感じながらも涙を必死にこらえ、二人を祝福しました。

翌日、卒業を待たず新天地・満州へ渡る決心をした川原は、タエとともに雪が降り積もった安曇野を後にします。

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年賀状を配るため雪道に自転車を走らせる郵便配達人とすれ違った川原たちは、朝日が昇る東への道に向かって歩いて行きました。          

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その年の3月、予科練に入隊する茂樹が旅立つ日、陽子はその後姿を追いかけ遠い地へ向かう兄に涙を流しました。

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これらの場面を収録した農道が、堀金岩原にあります。藁葺き民家、水車小屋のオープンセットのある南500㍍ほどのところです。

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この道は陽子にとって、様々な思い出のつまった別れの道なのかもしれません。         

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テレビ画面の映像でも分かるように、この一帯はきれいな朝焼けを見ることができるスポットです。    

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川原たちが朝日が昇る雪道のシーンは、雪が降った日に撮っていますが、冬の日、周辺はこのようになります。

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よく出てくるシーンの一つに、畑作業をする農家の人たちの近くを通る農道があります。

陽子は自転車に乗って通学する途中、朝早くから大根を収穫するタケオとその母親に挨拶したり…

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淡い恋心を抱いた川原と松本で逢って来た帰り、やはり同じ道を鼻歌交じりに歩いて通ります。

どういうわけか、タケオはいつも大根を抜きとる作業を行っていましたね。

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後年、教職についた陽子は、タケオが徴兵されて残された畑を複雑な心境でながめていたのもこの道でした。

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ロケ時は、農耕車が通ってへこんだ道に新たに土を敷き、人々が歩き締めたような道に再生しました。

行く道の先に家並みが見えますが、これはCG加工しています。

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この田舎道を、自転車に乗ってさわやかに風を切って安曇野女学校へ向かった陽子。    

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その途中、この民家のそばを毎朝通りました。民家の野外ロケセットが残っていましたが、強風で傷み取り壊されました。

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安曇野の空をオオルリシジミが舞っています

「オオルリシジミ」という絶滅のおそれのある蝶が、保護と繁殖に取り組む人たちの努力で 羽化し、いま安曇野の山野を舞っています。

オオルリシジミは、翅を広げた大きさが3~4cmほど、裏翅の基部の青色とオレンジ色の紋様が美しいですし…

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表翅を広げると、あざやかな瑠璃色が目を惹きます。

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かつては県内全域で見られたそうですが、開発や農地整備、農薬散布などで減少し、そこに乱獲が追い打ちをかけ激減、今では安曇野市と東御市の一部でしか見ることができなくなりました。

全国的にみてもオオルリシジミを見ることができるのは、ほかに九州・阿蘇山だけということです。

このためレッドデータブック(絶滅危惧野生動物)に登録され、保護されています。

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安曇野市では、オオルリシジミの保護、繁殖に取り組んでいる市民団体が、卵を天敵から守るため野焼きや草刈りをするなどして、この春オオルリシジミの自然発生に成功しました。

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羽化したオオルリシジミは、あづみの国営公園内の保護区域周辺を自由に舞っています。食草のクララの蕾を食べたり、シロツメグサやハルジオンの花から吸蜜している姿を観察できます。

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*  安曇野市でのオオルリシジミの保護活動の記録は、こちらです。

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今咲いているガーデンの花々(2)

ハーブスクエアでは現在、ガーデンを無料公開していますが、ハーブをはじめ今が見ごろの花々をご紹介しています。ガーデン散策時のご参考にしてください。

           152                  オールドカーネション・シナモンピンク

 

           154                  オールドカーネション・インチメリー

 

           186                  コモンセージ(ガーデンセージ)

     

     156                    レディースマントル(アルケミラモリス)                                                                                                                                                                                           

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           160                              ムラサキセンダイハギ

 

           164                                   マウスイヤー

 

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     184
                                                ゲラニウム

 

           187                             エロディウム

 

           172                             クリーピングタイム

 

           175                            バイカウツギ

          

     148                  ジギタリス(フォックスグローブ)         

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感性豊かな心を育てるベビーマッサージオイル

最近の調査によると、ベビーマッサージに対する人気と関心が高まっています。子どもを産んだお母さんが取り組みたいこととして上げるのがベビーマッサージで、常に高ランクをキープしています。

ベビーマッサージは、赤ちゃんの感性豊かな心を育てる営みであり、同時にお母さんが幸せを実感する営みともいえます。赤ちゃんとお母さんの肌と肌とが触れ合うマッサージは、たとえどんな方法で行っても、とにかく気持ちのいいものです。

赤ちゃんの肌はデリケートです。ベビーマッサージは通常100%ピュアな植物オイルを使いますが、そこに僅かな精油(エッセンシャルオイル)がブレンドされていますと、精油の成分の働きで赤ちゃんの皮膚を丈夫にしたり、乾燥を防ぐことで柔軟性を増す効果も期待できます。

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ベビーマッサージ専用オイル」はネロリ(ビターオレンジ)の花から抽出した精油をスイートアーモンド、ホホバなどの植物油で赤ちゃんの肌に合わせて希釈しています。

ネロリの効果で赤ちゃんの気分をさらにやわらげ、肌の保湿効果を高めます。浸透性がよくベトツキもありません。マッサージをするお母さんもネロリの芳香でリラックスしながら、赤ちゃんとのアタッチメントが楽しめます。

赤ちゃんは肌からオイルをたくさん吸収しますので、心地よいマッサージを受けながら、丈夫で感性豊かな子どもへと育っていく環境ができます。

   〔 ベビーマッサージ専用オイル 
                      100ml入り   3,150円(税込み)

           

* 〔 ベビーマッサージ専用オイル  〕は、ハーブスクエアで通常販売しているほか、通信販売でも取り扱っています。  詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(12)~松本50連隊と有明演習地

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


陽子は安曇野高等女学校の帰路、街角で出征兵士を送る壮行会に出会ったりしました。

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昭和12(1937)年中国の北京近くの盧溝橋で日中両軍の衝突が拡大し、本格的な戦争が始まりました。宣戦布告のない8年にわたる長期戦へと突入したのでした。当初は、そのための兵役でした。

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ドラマ「おひさま」では、穂高の街から出征する場面がでてきましたが、昭和5~9年までの間、旧穂高町内から441人の青年たちが入営しています。

下の写真は、故郷を出立してきた兵士が松本に集結し、中国の前線へと向かうときの模様(昭和12年)です。

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昭和16年12月8日、日本はアメリカの海軍基地ハワイの真珠湾を急襲し、太平洋戦争が始まりました。陽子が「尋常小学校」から「国民学校」になった母校の有明山国民学校へ赴任し、新米教師として奮闘していた時でした。    

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校長が開戦を知らせ、全校集会で万歳を三唱しました。その前から続いていた戦争の中で、苦しみに耐え続けていて、真珠湾でのアメリカ太平洋艦隊に壊滅的な打撃を与えたということは戦争がまもなく日本の勝利で終わるだろうと明るい期待を抱いたからでした。

しかし、そんな願望とは裏腹に大戦の勃発は庶民にとって、さらに長く続く辛い日々の始まりとなったのでした。

安曇野市穂高有明に、戦線に送りだす兵士たちを教練した演習地と兵舎の跡があります。     

松本・安曇野地方に兵営が設置されたのは日露戦争後の明治41(1908)年で、松本市桐に誕生した陸軍歩兵第50連隊です。

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そして大正4(1915)年から昭和20(1945)年の終戦まで、安曇野市穂高有明に広がる45万坪(150㌶)の山林が、50連隊の演習地になりました。

上の写真は演習地の近くにある廠舎(しょうしゃ)の正門を出て、演習に向かう50連隊の兵士の行進です。有明演習地は当時、アカマツなどが生い茂り、その幹を射撃目標に撃ち込んだといいます。

下のような実弾演習を行うときは、赤旗を掲げ村民に危険を知らせたということです。実弾射撃の音は遠くの里にも響き渡り、終戦まで止むことがありませんでした。         

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ハーブスクエアの場所も当時の演習地内に含まれていて、ガーデン造成のため耕していると薬莢が土中からよく出てきたものです。

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秋には秋季大演習を隣村まで範囲を広げて行い、冬には耐寒行軍、そして夏には山地行軍、水泳訓練などが行われ年間を通して訓練計画がぎっしり組まれ、初年兵はここで徹底的に訓練されたそうです。訓練を受けた後、兵士たちは戦線へと送り込まれました。

幼なじみのタケオも甲種合格で召集されましたが、配属先は松本50歩兵連隊だったのでしょうか?    

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陽子が丸山和成とお見合いをしたのは、和成が召集解除となり松本50連隊から復員していた昭和18年でしたね。

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50連隊が演習で寝泊まりする廠舎は、9700坪余りの敷地に兵舎4棟のほか本部、厩舎、炊事場、営倉、弾薬庫など20棟がありました。

戦局が悪化し本土決戦に備え、50連隊は演習地で猛訓練を行います。そして、他の歩兵連隊も有明演習地で訓練を行うようになります。このため、兵士の宿泊は兵舎だけでは足りず、穂高、有明、隣りの松川村の各国民学校に分駐しました。

当然、陽子が勤務していた有明山国民学校にも兵士が寝泊まりしたわけです。このため学校は二部授業にするなど学童たちは、落ち着いて学習することもできなかったようです。

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兵舎は全く野戦向きの構造で、土間の通路を中央にとり両側に板張りの床があり、その上に敷きわらをして寝たそうですが、後に常備寝具に毛布が支給されました。

戦後、兵舎は取り壊されましたが、営門のあった正門跡地に案内板と土塁跡が残っています。

有明演習地は戦後、満州(中国東北部)から帰還した入植者に耕作転用され開拓が始まりました。しかし、昭和27(1952)年に保安隊(後の陸上自衛隊)松本駐屯部隊の演習地になる計画が持ち上がります。

穂高・有明地区を中心に危惧する声がわき起こり、根強い反対運動により計画は4年後に断念に追い込まれます。    

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かつての演習地一帯は、現在「豊里」と呼ばれる豊かな農業地と緑濃い観光地として生まれ変わっています。その一角に開拓に使用した動力機と開拓記念碑を見ることができます。

 

* 白黒写真は「写真記録 信州の昭和」などから撮ったものです。

 


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メディカルハーブ-12    ヒース

生長の遅い常緑樹で、明るいピンク色で釣鐘形の花をつけ、別名・ヘザーともいいます。花からヘザーハニーや緑色と黄色染料も採れます。

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花の部分にはミネラルが豊富で、美白成分のアルブチンも多量に含みます。

アルブチンは紫外線によるメラニン色素を合成するチロシナーゼに直接作用し、メラニンの合成を防ぎます。ですから、日焼けからくるシミを取ったり、予防したりします。

また、アルブチンは利尿、尿路殺菌作用にも優れていることから腎臓と尿路の感染症の治療に使用されます。

さらに、全身の強壮に用いるほか、チンキやヘザー水を入れた風呂はリウマチ痛を和らげる働きがあります。殺菌力も強いことから、ニキビの治療にも用います。

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◆ 和名     ギョウリュウモドキ

◆ 学名     Calluna vulgaris 

◆ 主要成分 ヒドロキノン配糖体(アルブチン、メチルアルブチン)、フラボノイド 、タンニン、ミネラル

◆ 作用     収斂作用、利尿作用、殺菌作用、鎮静作用




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連ドラ「おひさま」にでてきた安曇野の風景(11)~飴と安曇野産米

安曇野が舞台のNHK朝のテレビ小説「おひさま」で放映された安曇野とその周辺の風景を紹介しているコーナーです。

* 掲載した写真で、左上に時刻表示の数字があるのは、テレビ画面を撮ったものです。


安曇野女学校の放課後、陽子たち3人は人目を盗んではたびたび飴屋「村上堂」に立ち寄りました。箸でたぐる水飴のおいしい食べ方を教わったりしながら…     

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学校内であったその日の出来事から、家庭・家族のこと、初恋のときめき、卒業してからの進路、自らの人生など笑いこけながら、時に涙を流しながら話し合いましたね。

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しかし、いろいろ調べてもこの当時、残念ながら安曇野には、飴玉、金平糖、せんべい、キャラメルなどの駄菓子を売る店はあっても、村上堂のように製造・販売する飴屋はなかったようです。

隣の松本市には、当時も今も3軒の飴専門店があります。この3店とも江戸期から続く老舗で、伝統的な飴づくりのそれぞれの秘法を受け継いでいます。

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中でも最も古い歴史を持つのは、山屋御飴所で寛文12(1672)年の創業といいますから三百年を超える伝統があります。

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店の看板も明治18(1885)年のものといいます。ドラマで陽子たちが村上堂に立ち寄ったのは太平洋戦争に突入する少し前のことですが、山屋御飴所さんは戦中、兵士の携行食としての飴を作り、陸軍に納入していました。

この飴は軍人が堂々行進する姿にちなんで「堂々飴」と名付けられ、今でも定番商品として製造販売され人気銘柄になっているそうです。

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山屋御飴所の屋根に陶製のカエルの像が一対飾られています。堂々飴を口にした兵隊さんが戦地から「無事帰る」ことを願って据えられたということです。

飴は甘いものですが、いずれの店の飴にも砂糖などは使用していません。

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原材料は、米と麦芽と水だけです。そこで使用される米の多くは、安曇野産米です。水飴も安曇野のもち米を使っています。米が原材料の水飴ですので、米飴とも呼びます。

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大麦の種子が芽を出したものが麦芽ですが、これに含まれているアミラーゼという酵素が、もち米に含まれるデンプンから甘い味を引きだしているとのことです。

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米の甘みは強くはありませんが、ゆっくり体内で分解・吸収されるので腹もちが良いし身体にもやさしいのだといいます。

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一さじ分の米飴には、職人さんが伝統的な手法でグツグツ煮込んだ安曇野産米が約740粒分詰まっているのだそうです。

女学校の卒業記念に村上堂で飴を舐め、ラムネで乾杯しました。陽子たち女学生たちにとって、飴と村上堂は青春の思い出の詰まった場所だったのかもしれません。

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しかし、その村上堂も太平洋戦争に突入した昭和16年、原材料不足、物資欠乏に伴い休業に追い込まれましたね。

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このまま廃業にいたるのかなと思っていたら、戦後になって復興を遂げる脚本が用意されているようですよ。

 

* 松本市で営業している飴屋さんの山屋御飴所飯田屋飴店新橋飴店のHPです。通信販売も行っています。

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ずいとん坊~明科・本町

むかし、むかしのこと、明科に地蔵堂があり、お坊さんが一人住んでいました。名を「ずいとん坊」といい、これがまた、お勤めが大嫌いで、お経をあげたことなど、まるでない怠け者でした。

          024                                 (明科・中川手にある地蔵堂)

毎日、朝から晩まで遊びほうけていたある日のこと、その夜も遅く帰ってきて、寝床に入るやいなや、グーグー眠り込んでしまいました。すると、真夜中になって「ずいとん坊!ずいとん坊!」と呼ぶ声に目を覚ましました。

「へっ?だれだい」。起き上ってみたものの返事はなく、辺りは真っ暗やみです。ずいとん坊は、夢でも見たのかと思い、そのまま布団に入ってしまいました。

少したつとまた、「ずいとん坊!ずいとん坊!」と言う声で目を覚まし「だれだやー、わしの名を呼ぶのは。どこかで弔いでもできたのかい?」と、大声で叫んだものの、またもとの静けさに帰ってしまいます。「気のせいか」と、のんき者のずいとん坊はそのまま、布団に入って寝てしまいました。

そんなことがあっても気にせず、次の日も遊んで帰ってきては、お勤めもせず高いびきをかいて寝ていました。しかし、真夜中になると「ずいとん坊!ずいとん坊!」の声で目を覚ましました。

こんなことが次の夜も、その次の夜も続きました。さすがのずいとん坊も気味悪く、怖くなってきました。そして、今夜こそはあの声の正体をつきとめてやろうと、珍しく遊びに行くのを取りやめ、お経をあげて夜の更けるのを待ちました。

          007                   (地蔵堂のある龍門寺の山門近くに立ち並ぶ六地蔵)

お経をあげながら、ついうとうとしていた時、「ずいとん坊!ずいとん坊!」と、あの呼ぶ声がしました。「おっ、来たな」とずいとん坊の眠けは吹き飛んでしまいました。

しかし、真っ暗やみです。目をかっと見開いて、念仏を唱えながら雨戸の隙間からもれる月の光を頼りに、なにやら動くものを見つけました。

目を凝らして見ていると、節穴にしっぽを入れて「ズイ」、雨戸を蹴って「トン」、抜くときに「ボウ」と音がして、それで「ずいとん坊、ずいとん坊」と聞こえるのです。

それを、繰り返しています。「ははあん、こりゃムジナだわい。いたずらしおって、よおーし、見てろよ」。ずいとん坊は、そおーっと節穴に近づいて行って、節穴に入ってきたしっぽをぐいっとつかみました。

急につかまれたムジナはたまりません。びっくりして逃げ出そうとしますが、がしっとつかんだずいとん坊の手は、びくともしません。ムジナは必死になってドタバタ、つかまるもんかとグイグイグイ。離すもんか、逃がすもんかとずいとん坊。

雨戸をはさんで、双方の力まかせの引っ張り合いが始まりました。行ったり来たりしていましたが、やがて「プチーッ」と鈍い音がして、ずいとん坊は尻もちをつきました。

     053  (ムジナは、アナグマのことですが、タヌキほどの体長があります=大町山岳博物館蔵)

ムジナは逃げて、ずいとん坊の手には、切れたしっぽだけが残りました。夜が明けて朝になると、ずいとん坊は、なんだかムジナがかわいそうになりました。「しっぽを取られて、さぞ困っているだろう。返してやろう」と思いました。ムジナが隠れていそうなところを探しまわりました。

でも、なかなかムジナは見つかりません。坂の途中まで来ると、道端にお地蔵さまが立っていました。目を向けると、花が供えられ、線香の煙が揺らいでいました。ずいとん坊は、はっとしました。

「こんなに朝早くからお参りする人がいるんだ。それに比べると、わしは毎日遊んでばかりいて、すこしも真面目にお勤めなどしてこなかった。……これは、仏さまが自分を戒めるためにムジナの姿を借りて、わしを叱りに来たに違いない」と思いました。

           026                                (地蔵堂の額)

それからのずいとん坊は、見違えるように真面目になって、毎日、朝に夕にお経をとなえては、仏の道にひたすら励んだということです。

 

           * 『 あづみ野 明科の民話 』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。   

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