安曇野の屋根瓦-23 天女がいる大手門と屋敷林
堀金・南原のAさん宅の正門の屋根に、珍しい羽衣をたなびかせた天女の飾り瓦があります。
アップすると、実に柔和な表情が見てとれます。瓦は野ざらし状態になりますので苔蒸していて、作られた年代の古さがうかがい知れます。
長い年月のなかで左の手首が破損して無くなっています。手首があると、この天女はどのような所作をしていたのでしょうか?
おそらく横笛をもって美しい音色を奏でていたのではないでしょうか。ですから、横笛も欠落したのではないかと…。
天女がいるのは、この門の上です。分かりますでしょうか?
実はこの門、由緒あるものです。国宝になっている松本城の旧大手門なのです。国宝指定になる以前の明治年代、民間に払い下げられAさん宅に移築されたという経緯があります。
その記録も残っていますし、鬼瓦部にある「離れ六つ星」の家紋が裏付けています。この家紋は、松本城最後の藩主だった戸田家の紋章になります。
さらに、この大手門を遠くから俯瞰すると、このお宅が屋敷林であることが分かります。屋敷林とは、敷地の周りに樹木を植え込んでいる伝統的な建築空間で、屋敷森ともいいます。
樹木が冬の風雪から母屋をはじめとする家屋を守り、夏の暑いときは木陰が強い日射しをさえぎってくれますので涼やかに暮らすことができます。
安曇野を代表する昔ながらの景観で、今でもあちこちに残っています。富山県・砺波平野の散居村、埼玉から多摩にかけての武蔵野の丘陵地帯でも見ることができます。
このお宅の前には、二十三夜塔、庚申塔などの民間信仰の石碑も残っていますし、遠くに北アルプスの秀峰・常念岳が望めます。周りは豊かな田園が残り、のどかな安曇野の風景のなかに天女がいます。
| 固定リンク
「安曇野のいま」カテゴリの記事
- 地域外の人たちも御船を曳きました(2012.10.01)
- 「安曇野の蝶」の細密画展が開かれています(2012.09.17)
- 安曇野の御船子供祭りが催されます(2012.09.07)
- 長野道豊科ICが「安曇野IC」に名称が変わります(2012.08.21)
- 松本・神宮寺で「原爆の図」が展示されています(2012.08.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
こんばんは。
由緒のある天女様だったのですね。
それにしても、城の大手門がしっくりしてしまうお宅というのにも驚きです。
安曇野の風景に屋敷林のあるお宅があって、
松本城の歴史を伝える門が残されて、そこにこんな天女様がいる。
すばらしいですね。
屋根瓦と一緒に苔むしているので、おそらくは江戸時代の天女様なのでしょうね。
それとも移築の際に瓦を葺き直したのでしょうか?
おっしゃるとおり本当に柔和な表情ですが、なぜお城の門の真ん中に天女様が落ち着いているのか、謎ばかりですね。
先日、見て回った鍾馗さんには江戸時代と確認できるものはありませんでしたが、こうした瓦の細工をする職人さんは古くからこの地にいたことになりますね。
私のブログのコメントにも書きましたが、明治期に三河の職人さんが信州に流れてきて鬼瓦を作っていたという記録がありますが、それ以前のことはよくわかりません。
池田町の鶴にも感嘆しましたが、流れ職人だけでなく、地元の職人さんたちが古くから活躍していたのではないかと考え始めています。
投稿: kite | 2011年4月15日 (金) 01時01分
こんばんは、kiteさん。
この天女さまを見つけた時、本当に息を呑みこみました。屋敷林、立派な門構え、ゆったりとした田園風景、そして遠くにくっきり雪をいだいた峰々、日本の原風景を探し当てたような感動でした。
安曇野地方で瓦は、かなり古くから製造されていたようです。弥生時代の遺跡から瓦粘土を採取した跡が発見されているそうですし、廃寺遺構から数多くの瓦が発掘され、この地方に7世紀後半には瓦葺きの建築物が存在していることが分かっています。
そして発掘された軒丸瓦の文様から、朝鮮半島から瓦製造のため渡来した工人が東山道経由で安曇野の地に製法を伝えたのではないかと推測されているようです。
おっしゃるように江戸期(1600年代)に松本藩主が三河から瓦職人を呼び寄せ、天守閣や大手門などの瓦を製造させたという古文書もあります。
ひょっとすると、工人が伝えた伝統的な工法と三河職人の技術、意匠などがこの地方で融合し多くの瓦職人を生んだのかもしれません。
そして、職人の心意気が一品モノの鍾馗さんや天女さまを作り上げたのではないかと考えると、なにかロマンのようなものを感じますね。
投稿: まき | 2011年4月16日 (土) 21時52分