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2010年9月

ふしぎな観音さま~鍋冠山

堀金・岩原に住む茂助は、西山で土引き(馬で木材を引く仕事)をしたり、薪や荷物を運んだりして暮らしていました。               
馬のあおは、村中のどの馬よりも体がひと回り大きく、仕事もよくしました。「どうだ。おらとこのあおは、一番の馬だ」が、茂助の自慢でした。

          122(茂助自慢のあおは、こうして毎日働いて茂助を助けていたのでしょうか=豊科郷土博物館蔵)

いつものように、薪を里まで運んで行っての帰り道、酒屋で一杯飲んでいるうちに、夜もだいぶ更けてきました。「いけねえ、さあて、帰るとするか」。馬の手綱を引いて、暗い野中の一本道をとぼとぼ歩いていると、「ヒヒーン」とあおが突然いなないて立ち止まりました。               

「あお、どうしただや」。驚いて茂助があおをみると、耳を後ろに向け鼻をふくらませ、尻尾を伸ばしてブルブルとわななきながら、鍋冠山(なべかんむりやま)の方を見つめています。「あの山に、なにかいるだかや」と山に目をやると、中腹あたりがチカッ、チカッと光っているように見えます。

          062           (遠方中央の丸みがかった山が鍋冠山=2194m=です)   

「あれはなんだや。あんなとこが光っているなんて。変だぞ」。立ち止まってみていると、まもな く、その光は消えました。「おかしな光だなあ。なんだか、おらとこ呼んでるみてえな光だぞ。明日はひまだで、あお、あそこまで行ってみるか」               

次の朝、茂助はあおと夜が明けないうちに家を出て、川沿いの道をさかのぼり、東峠を西へ西へと向かって上り、やっとのことで鍋冠山に着きました。しかし、あたり一面に霧がまいてい て、昨夜光っていたところなどさっぱり分かりません。

「これじゃあ、どうしょうもねえわ。腹もへ ったで、飯にすっか」。飯を終えてゴロリと横になった茂助は、山登りの疲れからか、やがて寝入ってしまいました。               

と゜のくらい眠ったころか、茂助は夢を見ました。その夢の中に観音さまが出てきました。「わたしは土の中に埋められている。苦しくて仕方がない。そのため昨夜は光を放してお前を呼んだのじゃ。遠いところをご苦労だったが、わたしを掘り出してくれ。頼んだぞ」と、告げられたのでした。

         039       (茂助が観音さまの放った光を見たのはどの辺りだったのでしょうか)

夢から覚めた茂助は、驚きました。すでに夕暮れになっていたからです。そして、あおがすぐ近くで横たわっています。近寄って、あおを起こそうとしましたが息絶えています。               

「あお、どうしただや。おまえに死なれたら、おら、どうやって暮らしたらいいだや」と、茂助はあおの亡がらにすがって泣きました。すると、あおの横たわっている下がピカッ、ピカッと昨夜 のように光りました。               

気を取り戻した茂助は、そこを必死で掘りました。しばらく掘り進むと石の観音さまが出てきました。観音さまを大事に掘り出し、その穴を大きく掘り広げて、あおを埋めました。そして、すぐ近くの松の木の下にあおの墓標として観音さまを祀りました。               

日も暮れてしまったので、茂助はあおの弔いをかねて埋めたそばで寝ることにしました。眠った茂助は、また夢を見ました。あおが元気に土引きしていました。

あおの姿が消えると観音さ  まが、再び現れました。「今日は土の中から掘り出してくれてありがとう。こころばかりのお礼をしたい。わたしの下を掘りなさい」と、告げられました。

          Photo_4(むかし、家族同然だった愛馬がなくなると、村人たちは慰霊の碑を建て供養しました)

朝日の輝く中で、茂助は目を覚ましました。そして、松の下の観音さまを横に寄せて、根元を掘りました。すると、壷が見えてきました。掘り出して中を見ると、小判がぎっしり入っていました。               

「こりゃあ大金だ。……でも、これは観音さまの金だ。そうだ。このお金を借りて、馬を買い、ま た、仕事しよう。そうすりゃ、お金もお返しできる。……観音さま、しばらくお金をお借りするんね」 。茂助は、大事に小判をふところに入れ、山を飛ぶように下りました。               

そして、その後馬を買い、田畑を買い、百姓仕事に精を出しました。暮らしも楽になり、お嫁さんを迎えることができました。観音さまから借りたお金も、そっと山の壷に返すことができました。

 

     * 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。              

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豪華で、勇壮なお船祭りが開かれました

昨27日、穂高神社の秋の例大祭「お船祭り」が開かれ、伝統的な穂高人形が飾られた大人船2艘と子供船3艘が奉納されました。

各町内を練り歩いたお船は、神社境内に三々五々、集結し、観覧客にお披露目します。   

          011                               (石橋山の合戦=穂高町区・子供船)  

          013                 (本能寺の変=等々力町区・子供船)     

          020               (飛行機のはじまり=穂高区・子供船)

この「飛行機のはじまり」は、天明5(1785)年に岡山の表具師・幸吉が、空飛ぶ鳥を見て自分も大空を飛びたいと願い、苦心の末に羽根を作るのに成功し、花見の宴が開かれていた上空を飛び、人々を驚かせたという史実を再現しています。

そして、ことし奉納された大人船は下の2艘です。  

          016             (平清盛 大輪田泊に港を造る=穂高区・大人船)   

          017         (片手千人斬り=穂高町区、等々力町区合同の大人船)

拝殿内の祝詞や玉ぐし奉てんなどの儀式が進み、いよいよお船の奉納です。各地区の氏子総代が、旧松本藩から拝領した御旗を掲げ、拝殿前の神楽殿を三周し終わると…。    

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子供船の登場です。拝殿に人形の舞台を向け、子どもたちが手綱を引き、大人が後押しして船を動かします。船の上と中には、祭りばやしの笛を吹く子どもが乗り、船の前後は寄贈された着物で飾っています。 

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それぞれの子供船が三周し終えると、いよいよ大人船の出番です。    

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こちらは着物飾りはなく、船の骨格が見えます。大きさも、子供船を二回りほど上回る迫力です。     

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神楽殿を周り終わったところで、次の大人船の登場を待ちます。
そして、2艘の船が相対峙すると…。
笛、鉦、号令を合図に船同士が激しくぶつかり合います。祭りは、クライマックスです。    

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船からギシギシと音がしますが、船の中で笛、太鼓を叩く子どもたちも打つ手を止めず、はやしたてるように鳴らし続け祭りを盛り上げます。    

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激しくぶつかり合うので、人形の舞台や船のあちこちが傷みます。     

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傷んだ個所の取りあえずの処置をして、またぶつかりあいます。    

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ぶつかり合いは体力がいりますので、例年3~5回ほどですが、今年は町衆同士の気勢も上がり、計7回激突し合いました。観客も勇壮なお祭りに歓声を上げながら見入り、十分満足した様子でした。

お船祭りは安曇野各地区で催されますが、船同士のぶつかり合いは穂高神社のお船祭りだけで、県の無形民俗文化財に指定されています。


 

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ツバメの死~燕岳

むかし、むかし、ずっとむかしのことです。燕岳の近くの沢に粗末な小屋があり、年とった父親と娘が住んでいました。父親は以前は里に住んでいましたが、人の物を盗んだというあらぬ疑いをかけられ、その後まもなくつれあいにも先立たれたこともあり、里に見切りをつけ山奥に移り住むようになりました。

          Photo                           (北アルプスの秀峰・燕岳=2,763m)

訪ねてくる人もいない静かな毎日でしたが、時にはクマやイノシシを追ってきた猟師が泊まることもありました。
そんな時には、夕食の後で猟師は「里の方は家がたくさん建ち、市が立っていろいろの物が売り買いされ、美しい着物をきた人たちがぞろぞろ歩いていて、それはにぎやかなもんだ」と里の様子を話してくれました。娘のふきは、こうした話をなんどか耳にするうちに、不便な山の生活と比べては、里へのあこがれと夢を大きく膨らませるのでした。

ある日のこと、ふきは父親に「里というところに一度でいいから行ってみたい」と相談しましたが、「若い娘が一人で行ったらどんなことになるのか、里はそんなにやさしいところじゃねえ。猟師のでたらめな話を本気にしちゃダメだ」と、厳しく言うのでした。

でもふきの思いは、父親のいう里のおそろしさより、胸の中に広がった里へのあこがれの方がずっと大きく、もうどうしようもありません。「いつかきっと里へ行ってどんなとこか見てみよう」と心に決めていました。

           149              (むかし猟師が使っていた銃と弾丸=穂高郷土資料館蔵)

 それからしばらくしたある日のこと。父親は朝早く、カモシカの猟へでかけました。大きな獲物をしとめ、夕方勇んで家に戻りました。「ふきや、いま帰ったぞ」と声をかけましたが、返事がありません。家に入ってみると、娘の持ち物がありません。

「とうとう里へ行ってしまったか…どうか無事で帰って来てくれ」とつぶやくと、その場に座り込んでしまいました。

娘のふきが家を出てからひと月、ふた月と過ぎ、やがて冬が来て春になり、何度目かの夏がやってきました。ある日のこと、小屋の軒下に一羽のツバメが巣を作っているのを見つけました。

「ほう、めずらしいこともあるもんだ」とつぶやいてツバメを見ていると、ツバメの足に赤い糸が結んであるのに気づきました。「あれはふきの帯の糸だ……。まさか…。いや、きっとそうだ!ふきがツバメになって戻ってきたんだ!」

          033                           (ヒナに餌を運ぶツバメの親鳥)

それからの毎日、巣を見上げてはツバメに話しかけたり、時には虫を捕ってきてやったりして、ツバメを本当の娘のようにかわいがりました。

そんな暮らしが続いていた夏の終わりごろ、強い風が吹き荒れました。風は一昼夜続き、とうとう住んでいた小屋が倒れてしまいました。父親は小屋を建て直す元気もなくなり、それから数日後、里が見える場所で息を引き取りました。ツバメは、もう動かなくなった父親の上に止まって「チーチーチー」と悲しい声で鳴きました。

     Photo(高山に棲息するアマツバメ。父親に寄り添っていた亡がらはアマツバメだったのでしょうか=大町山岳博物館蔵)

木々の葉が紅く色づき、やがてそれも散って寒い風が吹くころになっても、ツバメは鳴き続けていました。

そして、初めて雪が降った夜、ツバメはとうとう父親のなきがらの上で冷たくなっていました。雪は降り積もり、二つのなきがらをすっかり隠してしまいました。

          2_2                    (有明山=信濃富士=の左手に見える燕岳と安曇野の里)

やがて夏になり、いつかの猟師が小屋にきました。つぶれた小屋の近くに二つのなきがらを見つけました。「年寄りとツバメが一緒に死んでいるとは、きっと何か訳があるにちげえねえ」と二つの墓を作ってやり、「燕の山」と書いた墓標を立ててやりました。

その後しばらくして、この山を人々は燕岳(つばくろだけ)と呼ぶようになりました。

 

     * 『 あづみ野 穂高の民話 』(安曇野児童文学会編 )を参考にしました。

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すぐれた殺菌力のティートリークリーム

ニキビや吹き出物、あるいは擦り傷や虫刺されなどの時に使える天然成分100%のクリームのご紹介です。

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身体に対して様々な薬理効果をもった精油のなかでも、ティートリーの葉から抽出したティートリーオイルは、すぐれた特性を持っていることで知られます。

なかでも、免疫系の力を助け白血球を活性化させるうえで、すぐれた力をもっているということです。ですから、体内に侵入してきた病原菌に対して、強力な殺菌消毒力を発揮します。

さらに、ティートリーオイルは極めて浄化力が高いことから感染症をおこした創傷、おできなどの膿を減らしたり、水痘や帯状疱疹でできた吹き出物類をきれいにしたり、やけど、ただれ、にきび、白癬、いぼ、たむし、水虫にも役立ちます。頭皮の乾燥状態とふけにも有益です。

アレルギー性皮膚炎、水痘から虫刺されまで発疹をともなうかゆみ全般にも効果があります。

このティートリークリームは、ティートリーォーター、ティートリーオイルを主成分に作られています。家庭内に常備しておきますと、さまざまなときに使用できますので重宝します。ぜひお試しになってみては、いかがでしょうか。

  〔ティートリークリーム〕           80gl入り     2,415円(税込み)

 

* 「ティートリークリーム」は、通信販売でも取り扱っています。詳しくは、TEL0263(83)7782へお問い合わせください。

 


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新しい朝ドラは安曇野が舞台です

いま安曇野は、あちこちの畑で秋そばの花を見ることができます。いつまでも暑く長かった夏がようやく終わり、さわやかで澄んだ秋の空とソバの花色がよく合います。

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そば処信州は、各地にその地ならではの趣向をこらしたそばがあります。例えばとうじそば、すんきそば、はやそばーなど多彩なそばの食べ方があります。

10月初旬から11月中旬ころまで、各地で地元産のそばを打ち、調理した「新そば祭り」が開かれます。

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そばといえば、来春放送のNHK朝ドラ「おひさま」は、小さなそば屋を営む一人の女性のさわやかで、人びとをおひさまのような明るい希望で照らす一代記を描くそうです。舞台は安曇野と松本で、戦前から戦後までの時代背景になります。

安曇野と朝ドラ(連続テレビ小説)といえば、1975年に放送された「水色の時」があります。北アルプスの峰々や清涼な水、そして路傍にたたずむ道祖神などとともに、全国に安曇野が知られるきっかけになりました。

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女優・大竹しのぶさんのデビュー作で、いってみれば安曇野が、この大女優を生んだふるさとかも知れません。

放送後、穂高の穂高川の近くに「水色の時」道祖神が建てられ、観光コースとなっていて訪れる人たちがいます。

「おひさま」の本格的な撮影は、10月からスタートするということです。

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ヤマボウシが実をつけました

ティーコーナーのオープンテラスのすぐ前にあるヤマボウシの木が、今年もたくさんの実をつけました。

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木全体に白花を咲かせる初夏のころや、こうして実をつけ始めると「この木はなんというの?」とよく尋ねられます。

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一部に赤みを帯びているものもあります。これから、実全体がこのように赤くなり、さらに熟して甘見を増してきます。

実が熟したころになると、「ヘエー、ヤマボウシに実がなるの」「ヤマボウシの実って、食べられるんだ。初めて知ったわ」と、驚かれる方もいます。

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外の皮は簡単に剥けますので、これを取り除いて食べるとやさしい甘さが広がります。

 



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秋祭りのお船が練り歩きました

15、16の両日、ハーブスクエアのある穂高有明の豊里地区の秋祭りでした。

秋の実りをもたらした大地と農の神に感謝の気持ちを込める祭礼ですが、日照りは続いたものの大きな天変地異もなく、安曇野は五穀豊穣の秋を迎えました。

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安曇野・穂高の中でも豊里区は、戦後になって開拓されたところですので地域の伝統行事といったものが、これまでありませんでした。

こうしたことから豊里にも子どもたちの思い出に残るお祭りにしようと「豊里御船保存会」ができました。御船は、安曇野の地がその昔、北九州一帯の海洋に勢力をもっていた安曇族が移り住んだという故事に因んで祖先を偲ぶため造られる山車です。

船は、昨年できあがりましたが、ことしは地区の人たちの寄付で船の舞台を飾る人形が飾り付けられました。15、16日はそのお披露目に地区内を練り歩きました。 

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笛、太鼓の祭りばやしを響かせながら、ハーブスクエアの前にもお船が来ました。船は高さ4㍍、長さ5㍍、重さは2㌧もあるそうです。

船を曳航する手綱は子どもたちが引き、船の本体部の横木を大人たちが押します。長い登り道なので、引き手、押し手にも力が入ります。

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いよいよ、人形の舞台が通ります。

江戸時代、松本城の過酷な年貢の取り立てに困窮していた安曇野の農民たちが、その軽減を求めて起ちあがりました。

その中心になったのが庄屋の多田加助で、死をも覚悟して城に直訴に及びます。川を渡って直訴に出かける加助が、対岸で見送る妻子と別れを惜しむ「熊倉の渡し」の場面を描いています。

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伝統的な穂高人形は、胴体部を藁で作り上げますが、この人形は新聞紙を使って作り、人形の衣装は住民から提供を受けたものを使用、材料も資金も乏しい中、地区の住民が力と知恵を出し合い手作りしたものだということです。

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沿道では、住民に混じって観光客もカメラに収めていました。引き手やお囃子を受け持った子どもたちにも楽しい一日となったことでしょう。

       ………    ………   ………    ………   ……… 

* 先日、「迷い込んだ二匹の子猿」をアップしましたが、「その後、あの子ザルちゃんはどうしたの」という問い合わせがありましたので、後日談を載せます。

閉店の時間になっても、少し横に移動はするものの山へ帰るような素振りは見せません。

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そんなに怯えているようにも見えません。 

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1時間しても、2時間たってもそのままで、人気がなくなっても降りて来ようとしません。

仕方なく、登った柱の近くにキュウリとブドウの実を置いて帰宅しました。もし翌日もそのままの状態なら保護しなければと思いながら…。

それで翌日(19日)、出勤してみると、くだんの子猿さんはいませんでした。キュウリにもブドウにも手をつけず。

無事に山に戻ったのでしょうか、親猿と巡り合えたのでしょうか。気になりますが、その後の消息は分かりません。

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以上が、陳客の顛末です。

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尿酸値が高いといわれた時のハーブティー

足の親指のつけ根、ひじ、膝(ひざ)などの関節部が赤く腫れて、動けないほどの激痛が走ったことはありませんか?
痛風(高尿酸血症)と呼ばれる典型的な症状です。こうした時に、飲んでいただきたいのがブレンドハーブティー「健康-15 つうふう」です。

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身体の細胞は毎日、新陳代謝を繰り返し、新しく作りかえられています。古くなった細胞が分解されるときに、細胞の核からプリン体という物質が生成され、尿酸の元となります。

尿酸は水分に溶けにくく、血液中では尿酸塩として残り、これが多くなると針のような結晶ができて、身体のあちこちに留まって痛みを引き起こします。

プリン体を多く含むかつお、鶏レバー、サンマ文化干し、まいわし、するめいか、ビールなどを一度にたくさん食べたり飲んだりするのを控えることが必要になってきます。

「健康-15 つうふう」は、体内の尿酸を排尿とともに外へ出し代謝を改善します。その際、カリウム、ナトリウムなどの陽性ミネラル類が一緒に排泄されてしまいますが、これらを補給するブレンドになっていて不足してしまうようなことはありません。

痛風の発作をすでに経験された方、健康診断で尿酸値が高めで要注意のイエローカードを示された方は、ぜひ一度お試しになってはいかがでしょうか。

ブレンドハーブティー 「健康-15 つうふう 」  90g入り  1,680円(税込)

* 「健康-15 つうふう 」は、通信販売でも取り扱っています。 詳しくはTEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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迷い込んだ2匹の子猿

今日(18日)の昼過ぎ、子猿2匹がハーブスクエアに来ました。目撃したお客さんの話によると、一匹の子猿の背に別の子猿が乗り、正面入り口の近くにいたそうです。

そのお客さんが店内に入ろうとしたところ、目を合わせた子猿は行き場を失い、店内奥のティーテラスの方へ逃げ込んだということです。そのまま、テラスの柱を登って桟まで行きこちらを振り返ったのが、下の写真です。

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明らかに子猿です。左がやや大きく成長しているようにも見えることから、きょうだいで左が背負っていた兄(姉?)猿かも知れません。

しばらく高いところから、こちらの様子を窺っていたのですが、年上猿(と見られる)子猿は横へ移動。

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ホップを這わせているトレリスに行き、この場を脱出しようとしているようです。

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やがて、トレリスを伝って地上に降り、そのまま草むらへと身を隠しました。立ち去った後には、たくさんのホップの花が、こぼれ落ちました。

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残されたもう一匹は、おびえた様子はさほど見せないものの、どうしたものか思案にくれたように、その場を動きません。

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そのうち異変に気づいたお客さんが、カメラやビデオを回して撮影を始めました。

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そんなことが続いて、3時間余り、そのままで動きません。よく見ると、目は開いているので寝ているわけでもないようです。

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猿がこの周辺に出没するのは、珍しいことではありません。でも、その時は群れで現れます。

今回のように、子猿2匹だけというのは初めてです。何らかの事情で、親猿や集団と離れて迷い込んだのかもしれません。



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木喰天明行者~有明山

むかし、堀金・扇町に為吉という男の子がいました。為吉は行者になることに、あこがれていました。願いがかなって、大きくなってから行者に弟子入りし、修業するようになりました。

深い山奥で急な坂を登ったり、滝つぼで水に打たれたり、また冬にはつららが張った滝で、衣服もつけず水につかる荒行も乗り越えました。山中の修業ですので、草の芽や木の実だけを食べて過ごすのは当たり前でした。その甲斐あって、ご不動さまから「天明行者」という名を授かりました。草木を食べて修業を続けたので「木喰(もくじき)天明行者」とも呼ばれました。

ある日、「有明山を開山せよ」というお告げがありました。有明山は霊験あらたかな神さまが住んでいられると人びとからあがめられている山でしたが、開山するには厳しい山でもありました。

          Photo_3                (美しい山容を見せる有明山=2,268m=の朝焼け)

山に入ると、木立は生い茂り行けども行けども藪(やぶ)にはばまれ、汗まみれになりながらも道を切り開いていきました。途中で滝があれば水の行をとり、大きな声で呪文(じゅもん)を唱えながら進みました。

谷の見えるところまで来たある日、突然、黒い雲が重く広がり、夜とまちがえるほど辺りが暗くなりました。そして、大粒の雨が鋭く降ってきて、天明行者の体をたたきました。そのすぐあとに、天も地も割れてしまいそうな大きな音がとどろき、目もくらむばかりの稲妻が光りました。

その時です。目がらんらんと輝き、裂けんばかりの大きな口を開いた恐ろしいいでたちの生き物が現れました。

     006  (天明行者の姿を描いた絵が、行者が祀られている社の裏手に残っています)

少しくらいのことでは驚かない天明行者でしたが、地面に伏して身の危険を感じ、そこから逃げ帰らざるをえませんでした。「この世に、あのようなものがいたとは思いもよらなかった。しかし、あれを退治するには我をおいて、他にはあるまい」と自分自身に言い聞かせました。

誓いも新たに前にもまして、修業を積み重ねました。火の行、水の行などの苦行をはじめ難行も克服し、ついには風となって空をかけるまでの行を修めました。そのなかで、あの怪物の正体がわかってきました。

     197_2(天明行者を祀っている穂高・宮城の木喰天明霊神宮に、怪物と戦った時の眼光鋭い行者の像があります)

それは、むかし、有明山の麓(ふもと)に住んでいて、大和朝廷軍の坂上田村麻呂将軍と戦って敗れた八面大王の化身(けしん)であることをつきとめたのです。大王の亡がらは復活を恐れた朝廷軍によって、バラバラにされ分散して埋められましたが、その霊は、どこへ行ったか分からなくなっていました。さまよっていた霊が、天明行者の前に現れたのでした。

天明行者にふたたび、天からお告げがありました。「ほかの誰にもできぬこと。その方、すみやかにおもむき、修めた秘法のかぎりを使い、退治せよ」。行者は、ふたたび怪物と遭遇した谷の見える場所へと向かいました。

     Photo_4(行者の前に現れた黒光りして巨体をくねらせた怪物とは、想像上の動物、龍を指すのでしょうか=穂高神社で)

そこに近づくと、前にもまして激しい風雨が吹きすさび、進む道も見えないほどでした。しかし、行者の体は雨にも濡れない不思議な力を備えていました。「バリバリ、ドカーン」といくつもの雷が落ちました。

「グァワオゥー」と、黒光りした巨体をくねらせて怪物が現れました。行者を飲み込もうと裂けんばかりの口を開き、目をらんらんと輝かせ、右へ左へ、天へ地へと、のたうちまわり行者に襲いかかりました。

戦いは、なおも続きました。怪物は、飲み込むのが難しいと知ると、今度は口から火を噴き始めました。天明行者は持っていた金剛杖を、その口にめがけて、呪 文(じゅもん)を唱えながら投げつけました。杖は喉元(のどもと)深く突き刺さりました。それでもなお、怪物は行者に襲いかかってきましたが、しだいに勢 いが衰え、ついに倒れて動かなくなりました。

     008     (堀金の行者の生家跡に、現在「天明霊社」が建ち、行者を祀っています)

天明行者も疲れきっていました。滝つぼの横の岩盤にぐったりと倒れかかりました。それから、目を覚ましたのは、三日も眠り続けたあとでした。そして、この大王の化身の霊を祀り、山頂に向かって道を開いていきました。こうして、天明行者は有明山の開山を成し遂げました。

開山を終えた天明行者は、その後、里に戻り人びとのために心をくだく毎日を過ごしました。病で悩む人がいれば、山野の薬草の使い方を教えたり治してあげたりして暮らしたということです。

 

     * 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。

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27日に豪華で勇壮な御船祭が催されます

いま穂高の中心市街地を歩くと、あちこちの広場や空き地に太い材木と、しなりのある枝木で組んだ大きな木枠を目にします。

これは何かと言いますと、今月27日(月)に繰り広げられる「お船祭」の主役になるお船の骨組みです。

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櫓(やぐら)、撥木(はねぎ)、横木などの大きな骨組み以外で使用するのは、今年になって山から切り出された「なる」という新木を使っています。

この船形の山車(だし)は、大人船と子供船があり大きさが違います。大きな大人船は、長さ12㍍、高さ6㍍、幅3㍍にもなり、船の中には10人以上の人が乗ることができます。

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お祭り当日は、この骨組みに様々な意匠が施されて本番を迎えます。まず船の周りは、各家庭から提供された数十枚もの着物で美しく飾られます。

そして、穂高人形と呼ばれる木、藁(わら),砥の粉、膠(にかわ)などすべて昔ながらの材料と道具類で作られた人形で、豪華な歴史物語の1場面が山車に据えられます。

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4個の車輪に乗った船の上で、子どもたちが奏でる笛、太鼓の演奏とともに、「お船」が各町々を練り歩きます。

その後、神社境内に集まって神楽殿を三周した後、祭りのクライマックスを迎えます。2艙の大人船が相対峙して、互いに船の正面を向け合ってぶつけ合うのです。

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海無し県の信州・安曇野で、なぜ船に因んだ祭事かというと、その昔、北九州や朝鮮半島を拠点に活躍していた「安曇族」が、この地に移住してきたのが、今ある安曇野の始まりになったという歴史があります。

こうした祖先を偲んで船を御神体として祀るようになったという説が有力のようです。

     031       (穂高神社の御船会館に展示されている穂高人形の頭)

*お船祭りについて詳しく知りたい場合は、こちらです。→http://www.hotakajinja.com/

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常念坊~常念岳

むかし、年の暮れになると、堀金や豊科に市が立って賑わっていました。魚や塩・油・酒、鍬や鎌などの農具、陶器、米や粉など穀物、着物や野良着などを売る店が、路の両側にびっしり軒を連ねていました。

やがて日も暮れ、お寺の鐘が鳴り響いてくると、一日の商いを終えた商人たちは店をしまい大八車に残った品物を積み込み始めました。酒屋も店じまいをしていると「もうし、お頼み申す。酒をくれないか」。 振り返ると、ぼろぼろの衣を着て長い杖を持ち、頭の毛を肩まで垂らしたお坊さんが立っていました。

           Photo_2                          (常念岳に道祖神、安曇野を象徴する風景といえます)

「この徳利に酒を一升入れてくれぬか」と、小さな皮袋を差し出しました。「お坊さま、この小さな袋に一升は、とても無理だんね」と店のものがいうと、お坊さんはギロリとにらむように「そう言わずに入れてみてくれぬか。きっと入るでな」と譲りません。「こぼれたって知らねんね」と、その皮袋に酒を入れ始めました。

ところが、不思議なことに酒はどんどん入り、きちんと一升入ってしまいました。「へえー!こりゃ驚いた。お坊さま、一升入ったわね」。「ワッハッハア、わしの言ったとおりだったろうが。ところで酒代はいかほどかな?」とお坊さんがたずねると「お代はおまけしておくわね」と、店の主は答えました。

          2          (北アルプスの秀峰・常念岳=2857m。冠雪している姿が雄々しさを印象づけます)

「いや、いや、そうはいかぬ。ただでもらっては、わしの気が済まぬ。……それじゃ、気ままな酒代をここへ置いとくでな」。言うが早いか、お坊さんは側の釣るし籠へ、さっとお金を入れるとスウッと消えてしまいました。お坊さんの置いていった酒代を勘定してみると「こりゃ驚けた。えらくたんとあるぞ」。驚いてお坊さんが去った方に目をやると、常念岳が目に入りました。

「おや、あれは何だや? さっきの坊さまじゃねえかや」。山の中腹あたりにお坊さんの動く姿がちらっと見えたのです。しかし、それは一瞬だけで、その後は見えませんでした。

次の日、酒屋の主は酒の売値を、お坊さんが置いていった酒代と同じにしました。すると、これまでになく良く売れ、それからは、この酒屋は大変にぎわうようになりました。

          053(常念岳に毎年5月になると姿を現す常念坊の雪形。徳利を手にしているように見えるでしょうか)

そして、それからもお坊さんは時々、市場に来て買い物をしました。不思議なことにお坊さんが立ち寄った店は、どこも繁盛しました。
「これは、お坊さまのお陰だ。お坊さまが来る前は、そんねに繁盛してねえ店ばかりだったが、立ち寄ってからみんな急に繁盛しだしただ。……あのお坊さまは八面大王の家来だった常念坊に違えねえ。大王が倒された後有明山から常念岳の岩屋に逃げ落ちたというで、まちがいねえ」

「あの坊さまが立ち寄った店はもちろんだが、市も前より賑わうようになっただ」と口々に語り合い、酒屋がお坊さんの姿を見たという常念岳の同じ場所に、毎年現れる雪形を「常念坊」と呼ぶようになりました。

 

    * 『あづみ野 堀金の民話』(あづみ野児童文学会編)を参考にしました。

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安曇野産米の穫り入れが始まりました

安曇野の田んぼが、いま黄金色に輝いています。

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そして、一つひとつの稲穂もたわわに実をつけ、「収穫の秋」を迎えました。

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秋というには残暑も厳しく、なかなか涼やかな気候が訪れていませんが、稲は順調に生育し、例年より早く取り入れ期が訪れたようです。

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この週末早くも、あちこちの田んぼで大型のコンバインや稲刈り機が田を行き来し、安曇野産米の収穫が始まりました。

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丹念に刈り取られた稲穂を束ねて、自然乾燥させる昔ながらの「はぜ掛け」する姿も見られました。

これから安曇野は、本格的な刈り入れ期を迎えます。


 

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もう一つの八面大王伝説

その昔、大和朝廷が全国統一をめざしていたころの話です。東北に力をもっていた蝦夷(えみし)を平定するために、坂上田村麻呂を大将にして侵攻することになりました。そして、信濃の国(長野県)を、その足掛かりとすることし、大挙して朝廷軍を送りこみました。

信濃の国にきた朝廷軍は、住民たちに食料の米や野菜をはじめたくさんの貢物やら無理難題を押し付けてきました。「布を出せ」「兵を出せ」「馬を出せ」と、矢継ぎ早の朝廷軍からの督促にどん底に陥った村々も現れました。

     091(大王をイメージして作った石像が大王わさび農場の一角にあります。かなり物語とは違った雰囲気かもしれませんが…)

ちょうどそのころ、安曇野の里に魏石鬼(ぎしき)八面大王という力の強い人が住んでいました。大王は以前、都に住んでいましたが、朝廷が都の住民に重い年貢を課すのをみて反旗をひるがえしたため都を追われ、全国を転々としたのち、この安曇野の地に来ていました。

温泉が湧いたり、高い峰々からの雪解け水が豊かなことなどからすっかりこの地が気に入り、都を追われた仲間たちとその家族を呼び寄せ、一緒に暮らしていました。

          Photo_5     (八面大王が住んだとされる「魏石鬼の岩窟」に摩崖仏が刻まれています)

「朝廷軍は、ここまで来て乱暴なふるまいをする。許しておけぬ」「このまま見過ごすと、民(たみ)は飢えてしまうぞ」と、大王の仲間たちは口々に叫び、見るに見かねて起ち上がることになりました。

朝廷軍との戦さが始まりましたが、大王側は多勢に無勢、そして武具も少なく勇敢に攻めるも命を落とすもの、深手を負うものが続出しました。決して優勢と言えない戦さでしたが、大王側にひるむ気持ちはありません。

大王軍の中に、薬師(くすし)の弥左衛門というものがいました。五年前、朝廷軍がやって来たとき、有明山に登って薬草を採っていたのですが、大王と会ってその人柄に感服し大王のもとで働いていました。

          3(切り刻まれた大王の胴体が埋められたとされる塚。大王わさび農場の敷地内にあり、大王神社として祀られています)

その弥左衛門のもとに、嫁のあきのがやって来ました。あきのが言うには、息子の弥助に「朝廷軍から、『三十三の斑のある山鳥の尾羽で矢を作れ』という命が下った」といいます。弥助の住む矢村の地は、弓矢の産地で弥助もこの職人でした。朝廷軍がやって来てからというもの矢村の里にも、弓矢の献上の催促がしきりでした。 

大王は「三十三斑の山鳥の尾羽か? よほど長い矢にするつもりじゃ」と、いぶかしながらいいました。あきのは、「これを作って差し出さねば、弥助は陸奥(東北)の戦さにかりだされる」ともいいます。

弥助とあきのは、昨年夫婦になったばかりでした。大王は「明日まで待て。必ずヤマドリを見つけてやる」と約束しました。

          8(朝廷軍と不屈の精神で戦っていたときの大王をしのばせる木彫りの顔=有明の「八面大王の足湯」にあるモニュメント)

激しい攻防が終わった次の日の夕方、大王は弥左衛門とあきのを呼び、「昨日の約束じゃ、ほれ」と、いつ捕えたのかヤマドリが横たわっていました。あきのは、大王になんども頭を下げてヤマドリを抱いて山を降りました。

     044(大町山岳博物館蔵に展示されているヤマドリの剥製。尾羽が長いのが特徴です)

それから幾日か戦さは続き、何十人もの男たちが死にました。しかし、大王がたてこもる山の砦はなかなか落ちませんでしたが、しばらくしてあきのは、ヤマドリの尾羽の矢に胸を打ち抜かれて大王が落命したという話を聞きました。人びとの話では、その翌日、弥助の留守中に羽根くずのおびただしく散らばる作業部屋で、あきのは喉を突いて死んだという噂が流れました。

安曇野の里を守るため、最後まで戦った八面大王が討たれた砦には、その後、たくさんの鬼つつじの花が咲くようになったということです。

 

     * 『 安曇野に八面大王は駆ける 』(中島博昭著)を参考にしました。

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化学合成物を使わない歯みがき

歯みがきは毎日、口の中に入れるものですから安心できるものを選びたいですね。そんな思いに応えてくれる歯みがきをご紹介します。

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一つは、発泡剤を含まず、泡が立たないタイプのオーガニック歯みがき(写真右)です。商品名は「オーガニック アロエベラ トゥースペースト ミント」といいます。

柔らかいペースト状で刺激が少なく、丁寧にラッシングすることで虫歯を予防します。ティートリーが口の中を浄化して口臭を予防し、海塩が歯ぐきを引き締め健康に保ちます。

100%天然成分のみで作られていますので、1日何度でも安心して使うことができます。

もう一つは、やはり発泡剤や研磨剤などの化学合成物を、まったく含まない「ねんどのハミガキ」(写真左)です。

国内産の良質な粘土(ナトリウム・モンモリロナイト)の歯みがきで、この特殊な粘土は、マイナスイオンに帯電していて口内の細菌の代謝物(プラスイオン)と電気的に結びつくことによって、歯の汚れを取り除いてくれます。

また、モンモリロナイトの微粒子が薄い皮膜を作るので、歯をコーティングし保護するとともに、歯をつるつるにしてくれます。味も穏やかで、歯を磨いた後でも食べ物の味は変わりません。

  〔安心して使える歯みがき〕

    オーガニック アロエベラ トゥースペースト ミント 
                              75g    1260円(税込み)

    ねんどのハミガキ
                              100g     930円(税込み)

* 「安心して使える歯みがき」は、通信販売でも取り扱っています。詳しくは、TEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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八面大王

むかし、魏石鬼(ぎしき)という鬼が有明山に登って、その山腹の中房に温泉の湧くところを発見し、「こここそ永く棲むには持ってこいの地だ」とすっかり気に入り、都から大勢の家来の鬼を呼び寄せ、自分のことを「八面大王」と名のりました。

    1376                              (信濃富士の別名をもつ有明山)

大王は大変おそろしく、魔力を使って雲を起こし、雨を降らせ、空を飛ぶように歩きます。また、里へ下りては人びとをさらって来たり、お寺やお宮を壊し、宝物を盗んだりする手のつけられない乱暴ものでした。ですから、村人たちはいつも怖がりながら暮らしていました。

    3_2(八面大王が棲んでいたとされる「魏石鬼の岩窟=いわや」が穂高・宮城に遺跡として残ります。考古学上、巨大な花崗岩でできた横穴式石室の珍しい古墳とされています)  

ある年、坂上田村麻呂という武勇まれなる大将が、東北の蝦夷(えぞ)征伐に行く途中、安曇野に立ち寄りました。そして、この八面大王の悪行を村人から聞きました。田村麻呂は、この鬼たちを退治してやろうと穂高・矢原に陣を構えることにしました。

田村麻呂は、なんどもなんども攻めてはみましたが、魏石鬼もさるもの、なかなか手ごわく攻め手を欠いていました。そこで信濃の国の社に鬼退治の祈願をして、戦勝を誓うことにしました。祈願は北から南へと続き、諏訪社から筑摩(つかま)八幡社(松本市)に詣でて祈った夜のことです。

          1(中房から引湯した「八面大王の足湯」にある大王の顔のレリーフ。いろいろな表情が八面あります)

筑摩八幡の神が田村麻呂の夢枕に立ちました。そして、「鬼の魔術を破るには、山鳥の羽で矧(は)いだ矢を使うのがよい」と告げました。ほうぼう探してようやく長尾の地(三郷・長尾)で望み通りの羽を手にすることができた田村麻呂は、鳥羽(豊科・鳥羽)でこの羽を使って征矢を作りました。

そして、八面大王と合戦沢で最後の戦いに臨みました。大王軍の力もあなどれず、一進一退を繰り返しました。田村麻呂が大王を山中まで追いつめた時、それまで乗っていた馬が倒れてしまいました。大王を打ち取るのにあと一歩というときだったのに、田村麻呂には「今度もだめか」の思いがよぎりました。

          055(安曇野市三郷の住吉神社に坂上田村麻呂征夷大将軍が祀られています。同神社にある田村麻呂の像)

その時です。突然、雷鳴がとどろき大粒の雨が降り出しました。そして、雲間から一頭のたくましい馬が天から下り、田村麻呂のそばに駆けてきました。この天馬に乗った田村麻呂は、大王めがけて山鳥の羽を使った矢を放ちました。

矢は大王の胸を深くを貫き血吹雪が上がり、さしもの大王もその場に崩れ落ちてしまいました。ついに大王を成敗することに成功したのでした。人びとは天から馬が駆け下りた奇跡が勝利を呼び込んだと喜び、この沢を「てんまさわ(現・天満沢)」と呼ぶようになりました。

しかし、魔道王と呼ばれる魔力をもった八面大王の亡骸(なきがら)をそのまま葬れば、また蘇って悪行を働くのではないかと田村麻呂は考えました。そのため、家来に大王の五体をバラバに切り放つよう命じました。そして、それらを遠く離れた別々の場所に葬るようにしました。

          Photo_3(穂高・耳塚の地名となった大王の耳が葬られたという塚。横側からみると古墳であることがわかります)

頭部を筑摩神社の境内に、耳を穂高・有明に葬りそれぞれ首塚、耳塚が残ります。胴体は北穂高の狐島と大王わさび農場がある御法田に、足は穂高・立足に埋めたといわれ、地名や社となって残っています。

 

      * 『 安曇野に八面大王は駆ける 』(中島博昭著)を参考にしました。

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エルダーベリーの収穫期です

以前、お知らせしたガーデンのエルダーベリーが、完熟期を迎えました。

今春、長い期間にわたって次から次へと白花を咲かせて楽しませてくれたエルダーは、ご覧のように一房に70~100粒くらいの黒い光沢のある小粒の実になりました。

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というわけで、さっそく穫り入れて、水洗いした後、日陰干しにしました。

6枚の大きな平ざるいっぱいに広げ、これから数週間かけて実の水分を飛ばし乾燥させます。

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エルダーベリーの含有成分は、脂肪酸、フラボノイド(ルチン)、ペクチン、粘液質、タンニン、ビタミンC、ビタミンAなどが主なものですが、中でもバイオフラボノイド(ビタミンP)を豊富に含んでいることで知られます。

この色素成分が、風邪、インフルエンザや花粉症などのカタル症状(粘膜の炎症)を緩和させるのに特効があります。欧米では、エルダーフラワー、エルダーベリーを「インフルエンザの特効薬」と呼んでいるほどです。

     4                     (今年6月上旬のエルダーフラワーの開花状態です)

また、抗炎作用のほか、発汗、利尿作用も顕著です。

まだ熟する手前のものもかなり残っていて、状態を見て随時収穫しますが、今年は相当量の収穫が見込めそうです。

 

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胃に不快感を感じたときのハーブティー

連日続いた猛暑で、水分などの摂り過ぎなどで胃腸などの消化器に変調はありませんでしょうか?
こうした胃の不調を改善してくれるブレンドハーブティーが、「健康-1 い」です。

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熱中症に陥らないために、適度の水分補給は必要ですが、大量に摂りすぎてしまいますと、唾液や胃酸が薄められてしまいます。このため摂取した食物の消化・吸収が十分なされず、消化器にも負担をかけてしまいます。

この結果、胃痛や吐き気、消化不良などからくる胃のもたれといった不快感が生じることがあります。「健康-1 い」は、ブレンドしてあるハーブの働きで、こうした症状を改善するとともに、健胃作用で胃そのものを丈夫にします。ぜひ一度、お試しになってみてはいかがでしょうか。

胃が荒れていたり、びらん状態になっているときは、この「健康-1 い」に、胃粘膜を保護・修復する粘液質という成分を含んだマーシュマロウなどを加えますと効果的です。

ブレンドハーブティー 「健康-1 い 」  90g入り  1,680円(税込)

* 「健康-1 い 」は、通信販売でも取り扱っています。 詳しくはTEL 0263(83)7782へお問い合わせください。

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山野には秋の気配が…

八月の下旬、久しぶりに安曇野周辺の野山を散策しました。「暑い、暑い」と言っているうちに、標高の高い山野には秋の気配が漂っていました。

秋の七草の一つ、ススキが花穂をつけています。

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クズが赤紫色の花をつけていました。大型のつる状草木で、茎の基部は木質化します。根に多量のでん粉を含み、葛粉がとれます。

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イタドリが花の時期を迎えています。春先の若芽は、酸味とぬめりのある歯ざわりのいい淡白な味の山菜ですが、今こうしてクリーム色の花をあちこちで見ることができます。

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花茎を長く伸ばして咲いているナツズイセンに出会いました。ナツズイセンは春になって葉を広げ、夏になるとその葉が枯れて花茎を伸ばし、開花します。ヒガンバナの仲間になります。

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花の最盛期を迎えているヤマハギにも出会いました。ハギも秋の七草の一つですね。万葉集にも最も多く登場するの秋の花です。

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